●28日はNHKホールでブロムシュテット指揮N響定期。今月は3つのプログラムで、それぞれモーツァルトとチャイコフスキーの後期三大交響曲を一曲ずつ組み合わせた曲目になっていた。この日は最後の公演ということで、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。3つのプログラムに足を運ぶことができたが、そのすべてが特別な機会だった。弦楽器は対向配置、モーツァルトでは小さめの編成。アンサンブルの精度が高く、「ジュピター」終楽章における各声部の立体感はまれに見るもの。そして「チャイコフスキーをモーツァルトの延長上にとらえる」というコンセプトが一貫されており、ロマン的な情念を後退させ、古典的均整を際立たせたチャイコフスキーが圧倒的。舞台から客席まで張りつめた空気が充満していて、「悲愴」では第4楽章の後の長い沈黙はもちろん、第3楽章の後にまで息づまるような静けさが訪れた。もう当分、チャイコフスキーの交響曲は聴けないんじゃないかという気分。一般参賀あり。
●ブロムシュテットが指揮台に立ったときは、客席の空気からして違う。ベテランのお客さんも背筋を伸ばすというか。そして、87歳にして指揮台と舞台袖をこんなに軽やかな足どりで往復できるということが信じられない。
News: 2014年9月アーカイブ
ブロムシュテット&N響のモーツァルト&チャイコフスキーの三大交響曲
チパンゴ・コンソートのバッハ父子
●26日は東京オペラシティの近江楽堂で、チパンゴ・コンソートのバッハ父子プログラム。今回のチパンゴ・コンソートは杉田せつ子さんのヴァイオリンと桒形亜樹子さんのチェンバロのデュオ。前半が父バッハで、トッカータとフーガ ニ短調(エンリコ・オノフリ編曲の無伴奏ヴァイオリン版)、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番ロ短調BWV1014、平均律クラヴィーア曲集第2巻の前奏曲とフーガ第23番ロ長調他、後半はC.P.E.バッハのソナタ ト長調 Wq62/19、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ハ短調Wq78。まったく作風の異なる、というか時代様式が異なるバッハ父子の音楽を堪能(トッカータとフーガが本当はだれの作品かという話はおいとくとして)。オノフリ編曲版のトッカータとフーガはこれまでにも編曲者自身の演奏で聴いているわけだけど、演奏者との距離が至近な近江楽堂で聴くと、まったく違った感銘を受ける。ドーム型の天井が作り出す豊かな残響を伴って眼前に力強い音像が結ばれて、オルガンで聴く際に近い迫真性を感じる。
●エマヌエル・バッハは生誕300年。なるべく今年の内に聴いておきたいわけだけど、どの作品も本当にチャーミングでおもしろい。気まぐれさが生み出すユーモア、変幻自在の情緒表現。シリアスなのかすっとぼけてるのかよくわからない身振り。作品の持つのびやかさ、溌剌とした活力が存分に伝わってきた。
ドゥダメル指揮ウィーン・フィルでシュトラウス&シベリウス
●25日はサントリーホールでドゥダメル指揮ウィーン・フィル。東京では3種類のプログラムが用意されていて、この日は二日目、R・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」とシベリウスの交響曲第2番。前半からオーケストラの豊麗な響きを満喫できたけど、より楽しんだのはドゥダメル色がはっきりと出た後半。もう本当に冒頭の数小節からして、彫りが深く陰影に富んだ表情が付けられていて、猛烈に濃厚なシベリウス。背筋がゾクッとする。こぶしがきいたシベリウスというか。しかし細部まで綿密に彫琢されればされるほど、エスプレッシーヴォのインフレ化みたいなものが起きて全体の大きな推進力が失われるんじゃないだろうか、と一瞬危惧するものの、これは杞憂。終盤はダイナミックレンジを大きくとって、熱く雄大なドラマを描き切った。オーケストラの集中力も高く、近年足を運んだウィーン・フィル来日公演のなかではもっとも満足度の高い一夜だったかも。
●アンコールにヨハン・シュトラウス1世の「アンネン・ポルカ」、ヨハン・シュトラウス2世のポルカ・シュネル「雷鳴と稲妻」。喝采のなか、決して指揮台に立とうとしないドゥダメル。オケの退出後も拍手は止まず、一般参賀に。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団新幹部記者会見
●24日は現在ドゥダメルとともに来日中のウィーン・フィルの新幹部記者会見へ(ANAインターコンチネンタルホテル東京)。楽団長が17年ぶりに交代するなど、幹部が刷新されたということで、新旧の楽団長および事務局長が登壇した。写真左より、前事務局長ディーター・フルーリー(首席フルート)、前楽団長クレメンス・ヘルスベルク(第1ヴァイオリン)、新楽団長アンドレアス・グロースバウアー(第1ヴァイオリン)、新事務局長ハラルド・クルンペック(第2ヴァイオリン)の各氏。グロースバウアー新楽団長は1974年生まれで、2008年にウィーン・フィル入団。一気に若返った。
●19時からサントリーホールで東京の初日があるというその日の17時から行われた会見で、内容は新体制のお披露目といったところ。「私たちにもっとも大切なのはクォリティ。これを将来にわたって継承していくのが私たちの役割である。近年オーケストラの世代交代が進んでいるが、今回の楽団長交代はその反映でもある」(グロースバウアー新楽団長)。「事務局としても、音楽家としても、まずは前任者が積み上げてきたことを継承することが大切だと思っている。来年はエッシェンバッハとともに来日して、大阪、名古屋、東京で6回の公演を行なう。さらにその次、2016年は特別な年になる。サントリーホールが30周年を迎えるので、なにか特別なことを考えている」(クルンペック新事務局長)。
●まだ新体制が発足したばかり、しかも前任者がともに登壇しているとあって、新任の幹部の二人は慎重な話しぶり。退任する二人のほうが口が滑らかなのは当然だろう。「サントリーホールは私たちのアジアにおける故郷。私たちはすっかり日本に錨をおろしている。これまで17年間楽団長を務めてきたが、日本に来るたびに同じように感じてきた。今62歳となって、オーケストラの定年まではあと3年ある。しかし、自分がまだオーケストラにいる間に、次の世代に仕事を引き継ぎたいと考えて、楽団長を退任することにした。ウィーン・フィルでの最後は一音楽家として迎えたいと思った」(ヘルスベルク前楽団長)。「新体制になってからの3カ月の間、引き継ぎを一生懸命してきた。若い二人は私たちの準備を受け入れてくれて、それに新しいアイディアやアクセントを加えてくれた。彼らが私たちと同じ価値観を共有していることをとても嬉しく思う」(フルーリー前事務局長)
●今回のツアーに同行しているドゥダメルの若さについて問われて、ヘルスベルク前楽団長が返した言葉。「指揮者とオーケストラは、初恋からはじまって、次第にその関係を深めていくもの。ドゥダメルが初めてオーケストラにやってきたときは、まるで20歳の若者のように思えた。3年前、80代のブロムシュテットを初めて指揮台に迎えた。そのときも、すぐさまわれわれは初恋に落ちた」。折しもN響定期のために来日中のブロムシュテットの名前がこんなところで飛び出した。
大井浩明 Portraits of Composers [POC] 第16回 トリスタン・ミュライユ全鍵盤作品
●21日は両国へ。初めての両国。駅の構内から横綱たちの巨大肖像画が出迎えてくれる。どすこい! いざ国技館へ……ではなくて、両国門天ホールへ向かう。POCシリーズ、新シーズンが第16回トリスタン・ミュライユ全鍵盤作品で開幕。ちゃんこ屋だらけの街にスペクトル楽派の西の横綱(←適当)が土俵入り。会場にはピアノに加えてオンド・マルトノも鎮座。大井浩明(ピアノ+オンド・マルトノ)、助演に長谷綾子(ピアノ+オンド・マルトノ)。
●全鍵盤作品が一挙に聴けるという貴重な機会、今回も年代順に作品が演奏されるということで、事前に演奏時間が添えられた曲目一覧を見て覚悟を決めてやってきたが、それでも予想以上の強烈さ。なにしろ、「夢が吊るし磨いた目のように」「マッハ2.5」「展かれし鏡」「河口」「ガラスの虎」「忘却の領土」という前半だけで、1時間半コース。オケのマーラー/ブルックナーの大作一曲プロならこれだけで終演してる。休憩後の後半は「南極征服」「告別の鐘と微笑み ~ メシアンの追憶に」「マンドラゴラ」「仕事と日々」。アンコールも含めて全部終わったら、なんと想定外の3時間半コースになっていて、気分的にはワーグナーの楽劇一作を聴き通すに匹敵するくらいの儀式的体験。
●「マッハ2.5」のオンド・マルトノ二重奏など、なんといってもオンド・マルトノの電気的音響が醸し出す「懐かしい未来」感が素敵ではあるんだけど、自分にとってのハイライトはピアノ独奏による「忘却の領土」。会場は残響の乏しいデッドな小空間ではあったけど、それでも響きの文様が半時間にわたって描き出す領土は十分に豊饒さを感じさせるものだった。恍惚。
●「のだめカンタービレ」で一躍名前が知られた「マンドラゴラ」もピアノ独奏曲。この曲って、マンドラゴラが絞首刑になった男から体液が滴り落ちたところに生えるっていうことで、ラヴェルの「夜のガスパール」の「絞首台」を引っ張ってきているんすよね。マンドラゴラと聞くと、引き抜くと叫び声をあげてそれを聞いたものは死ぬ、っていう話をまっさきに連想する人が多いと思うんだけど、そういう描写ではない(と思う)。
●お楽しみのアンコールはジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲から終楽章(オンド・マルトノ独奏:大井浩明、ピアノ連弾伴奏:長谷綾子+平野貴俊)。愉悦のデザート。
●POCシリーズ、次回は10月19日に近藤譲全ピアノ曲。以降、ヴォルフガング・リームのピアノ曲全曲、西村朗ピアノ作品撰集、細川俊夫/三輪眞弘全ピアノ曲、南聡「ピアノ・ソナタ」全曲と続く。
アップルがiTunesユーザー向けにU2の最新アルバムを無償配布してくれたのだが
●なんとなく引っかかって、うまく飲みこめないニュース。アップルがiTunesユーザー向けにU2の最新アルバムを無償配布してくれた。世界中の5億人のユーザーにプレゼントされたのだとか。ワタシのところにも事前にメールが届いており、iTunesプレーヤーを起動すると購入済みアイテムにアルバムが追加されている。別にU2に興味はないんだけど、タダなんだから困りはしない……いや、ホントにそうだろうか?
●どうやらこれが予想外に不評を買っているようで、ユーザーによっては知らない内に自分の音楽ライブラリに無関心なアルバムが加わることから、新手のスパムなんじゃないかという疑いまで持たれてしまっている。おまけにアルバムをiCloudから削除するためには有料のiTunes Matchが必要となることに苦情があがり、アップルが削除専用ページを急遽公開するという事態に。少し笑ったのは「U2ってだれ?」っていう反応。
●たしかに自分のCD棚に趣味に合わないアルバムを勝手に置かれるのはイヤだ。CD棚とか本棚っていうのは、ただの物置じゃなくて自分のパーソナリティのなにがしかを反映させる場所なんだし。かといって、アルバム一枚であんまりうるさいことをいうのもためらわれる。そんなに上等なライブラリでもないだろう的な。
●しかしU2だって喜んで参加してるにせよ、「5億人に無償配布」ってファンの側からするとどうなんすかね。報道によればアップルがU2に支払ったのは1億ドル。iTunesから届いたメールには「未だかつて一枚のアルバムをこれだけ多くの人々が一度に手にするという事はありませんでした。音楽業界における特別な出来事として歴史に残ることでしょう。そして、あなたはこの特別な出来事の当事者でもあるのです」と書いてあった。
山田和樹&日フィル、アジア大会サッカーU-21
●12日は山田和樹指揮日フィルへ(サントリーホール)。シュトラウスの「ばらの騎士」ワルツ第1番、シェーンベルク「浄められた夜」、シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」。チェロは日フィルのソロ・チェロ奏者の菊地知也、ヴィオラにはベルリン放送交響楽団首席のパウリーネ・ザクセを招いた(一曲目からずっとヴィオラ首席で弾いてくれた。吉)。「浄夜」と「ドン・キホーテ」という、ともに1890年代後半に文学作品を題材に生み出された作品が並び、その性格の対照性があらわにされるとともに、精緻で澄明な響きの芸術という点で近親性も感じさせる。このコンビにいつも思うのは、一段階オーケストラが掃除されてきれいになった感。濃密さよりも透き通るようなリリシズム。
●アジア大会の男子サッカーはU-21だからまったくノーマークだったのだが、偶然テレビをつけたところ、初戦のニッポンvsクウェートを放映していて、すっかり見入ってしまった。このU-21、スゴくない? 監督は仙台で手腕を発揮した手倉森誠。この前のワールドカップのオランダ代表みたいな3バック(あるいは5バック)を採用して、スペクタクルな攻撃を展開、クウェートを4対1で一蹴した。先制点の大島僚太(川崎)、うますぎ。トップの鈴木武蔵(新潟所属のジャマイカ系選手)が2ゴール。いかにもセンターフォワード調の鈴木武蔵はタイプが違うが、ほかの選手は非常に足元がうまく、パス回しが気持ちいい。センターバックまで技術のしっかりした選手がそろっているような印象。フル代表は現在モデルチェンジ中だけど、U-21はニッポンらしい流れるようなパス回しと手倉森流守備組織がうまく融合しているように見える。もっと強い相手だとどうなるのかは未知数なので、この先も期待。
フルシャ&都響、ブロムシュテット&N響、ロフェ&OEK
●今週は各団体の秋のシーズンが開幕したこともあって、オーケストラをたくさん聴く週。
●8日は東京芸術劇場でフルシャ&東京都交響楽団のマルティヌー・プロ。マルティヌーの交響曲第4番とカンタータ「花束」という、フルシャならではのプログラム。近年マルティヌーの演奏頻度は着実に高まっている感あり。なかでも交響曲第4番は比較的親しまれている作品だと思う。祝祭的な雰囲気、躍動感にあふれていて好きな曲。でもその楽天的な部分を額面通りに受けとっていいのか、アイロニーを読みとるべきなのか……。後半のカンタータ「花束」は存在も知らなかった曲。事前にアンチェル指揮の音源を軽く聴いてみたところでは、素朴な民族色が前面に出ていて果たして楽しめるかどうか自信がなかったんだけど、実演に触れてみるとどぎついおとぎ話風の歌詞(字幕あり。訳詩も欲しくなる)と合わせて、訴えかける力が強い。オルフの「カルミナ・ブラーナ」を連想させる。初演はオルフのほうが一年だけ先。合唱は新国立劇場合唱団、東京少年少女合唱隊。子供たちが着ていたのは民族衣装? フルシャ&都響は今回も精彩に富んだ演奏を聴かせてくれた。フルシャは都響との首席客演指揮者2018年3月まで延長したとか。祝。
●10日はサントリーホールでブロムシュテット&N響。今回3つの定期公演でモーツァルトとチャイコフスキーの「三大交響曲」をそれぞれセットにしたプログラムが組まれている。まずはモーツァルトの交響曲第39番とチャイコフスキーの交響曲第4番。チャイコフスキーから過剰な情念や感傷を削ぎ落として、エッセンスだけを磨きあげたらこれまでに聴いたことのないような端正な音楽が生まれてきたといった趣き。質実剛健として推進力にあふれ、一般に老マエストロから想像されるような巨匠芸とは縁遠い、清新で覇気に富んだチャイコフスキー。そしてN響の底力を目の当たりにして圧倒される。
●11日はオーチャードホールでオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)。待望のマルク・ミンコフスキとの再度の共演となるはずだったが、残念なことに健康上の理由によりミンコフスキはキャンセル。代役はLFJにも出演したパスカル・ロフェ。本来ならミンコフスキと都響のビゼー交響曲「ローマ」に続いて、こちらではビゼーの交響曲ハ長調が演奏されて「隠しビゼー・シリーズ」みたいになっていたのだが惜しい。もっともこの公演のタイトルは「辻井伸行、ラヴェルを弾く!」。前半はまず辻井伸行のソロでラヴェルのソナチネ、「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」が演奏され、続いてラヴェルのピアノ協奏曲、後半にビゼーの交響曲という、ソロも協奏曲もオケも全部聴ける「一粒で三度おいしい」プロだった。快速テンポで開始されたラヴェルの協奏曲は、かなりスリリング。第2楽章のソロは詩情豊か。ビゼーは豪放磊落、筆圧の強さを保ちながら猛然とした勢いで押し切った。ちなみにミンコフスキは今月よりOEKのプリンシパル・ゲスト・コンダクターに就任するということで、本来ならこの日がサプライズのお披露目となるところだった模様。次回の共演は2015年12月。しばらく先。
ルネ・マルタンを囲む会。ラ・フォル・ジュルネ2015、2016、2017のテーマ
●来日中のルネ・マルタンさんを囲む会に出席して、来年以降の「ラ・フォル・ジュルネ」について、ざっくばらんとした話を聞くことができた。正式な決定ではなく、構想段階の話という前提で、話の内容をオープンにしてよいということなので書いておくと、2015年のテーマは「パッション」、2016年のテーマは「ネイチャー」、2017年のテーマは「ダンス」。さらに2018年のテーマは「エグザイル」なんてどうだろうか、というアイディアが披露された。
●まず、来年のテーマが「パッション」なのは、東京だけではなくナントも同じ。今後は特定の作曲家や楽派をテーマにするのではなく、もっと大きな枠組みのテーマを設定したいということだが、それはナントでも同様であって、当初は来年に「1685年 ~ バッハ、ヘンデル、スカルラッティ」というテーマを予定していたが、それを「パッション」というテーマに変えたのだとか。「パッション」というのは、まずイエス・キリストの受難(パッション)のことであり、同時に世俗的な感情としての情念(パッション)でもあって、来年のナントでは宗教曲と世俗曲と両方の「パッション」がテーマになる。バッハ、ヘンデル、D.スカルラッティ、ヴィヴァルディのバロックから、C.P.E.バッハあたりまで。
●で、東京でも「パッション」なんだけど、東京は5000席の大ホールもあるから、さらに拡大して、ナントでの「パッション」に加えて、ロマン派以降の音楽の「パッション」も含まれる。たとえばベルリオーズの幻想交響曲とか、ベルクの抒情組曲とか、シェーンベルクの「浄夜」等々。
●なるほど、そういう手があったか、と思う。これは願望なんだけど、東京は小さなホールではバロックの「パッション」を中心にして、巨大ホールではロマン派中心、名曲中心の「パッション」みたいな形にすれば、ナントで練りこまれたアイディアをそのまま東京に持ってこれるかもしれない。なにしろ前回は、せっかくナントで「アメリカ」という刺激的なテーマがあったのに、東京が「総集編」になってしまい激しく落胆したのだ。東京では、5000席のホールAを埋めることのできるプログラムは非常に限られている一方で、小さなホールはどんな珍しい作品であっても集客に心配はない(というか席数が少ないから全体にほとんど影響しない)という、両極端の状況がある。だったら、それに対応したプログラムの組み方があってもいい。
●2016年は「ネイチャー」。これはネタは無尽蔵だ。マルタンさんの口から出た曲目を挙げると、ベートーヴェンの「田園」、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」、ヴァレーズの「砂漠」、ルベルの「四大元素」、ラウタヴァーラの「カントゥス・アークティクス」(鳥とオーケストラのための協奏曲)、さらにトリスタン・ミュライユ、武満徹、等々。つまり、こういった抽象的なテーマ設定にすることによって、いろんな時代の作品を同時にとりあげたいということのよう。
●2017年の「ダンス」では、ラモー、リュリ、バッハのバロック舞曲、ロマン派のワルツ、バレエ、民族舞曲、タンゴ、20世紀の舞曲などのキーワードが挙がっていた。
●2018年の「エグザイル」(亡命者)では、ショパン、スカルラッティ、ラフマニノフ、バルトーク、マルティヌー等々。現代の中国出身の作曲家も。
●とまあ、来年の話をすれば鬼が笑うどころか、2018年までの話が飛び出した。マルタンさんはとても楽しそう(わかる)。もちろん、アイディアから現実のプログラムが組まれるまでの間にはいろんな段階があるわけで、これらがどれだけ実現するかはわからない。そもそも「パッション」=「受難」というのは大半の日本人には伝わらないことなので、そこに一段階なんらかの工夫が必要になるのかもしれない(し、あるいは必要ないのかもしれない)。
東京芸術劇場のヴェルディ「ドン・カルロス」パリ初演版
●6日は東京芸術劇場でヴェルディ「ドン・カルロス」パリ初演版(フランス語全5幕・日本初演)演奏会形式。在京プロオーケストラのメンバーで結成されるザ・オペラ・バンドを佐藤正浩が指揮。佐野成宏(ドン・カルロス)、浜田理恵(エリザベート)、カルロ・コロンバーラ(フィリップ2世)、堀内康雄(ロドリーグ)、小山由美(エボリ公女)他。この演奏からして実際のパリ初演版からはカットされた部分もあれば追加された部分もあるようで、版の問題は一筋縄では行かないが、ともあれ「ドン・カルロス」そのものをガッツリと正面から堪能。純然たる演奏会形式で演出要素はなし、字幕あり(ゴシック系のフォントだった)。
●この物語で共感可能な人物は、王であり、父であるフィリップ2世のみ。一見強権的なだけの人物のようでいて、彼だけが真に人間的な苦悩と孤独を感じさせる。その点では、初演時にもカットされていたが今回復活されたという第4幕後半の父子の二重唱は味わい深い。逆にヒーローであるカルロスはなにからなにまで「若気の至り」みたいな登場人物で、ロドリーグともども剣先に正義をひっかけているという点で、共感も信用もできない。外枠でドン・カルロスの正義の物語であったとしても、内枠でフィリップ2世の物語(未熟な実の息子と数少ない友を敵に回さなければならなくなった孤独な男の悲劇)が用意されていて、その外枠と内枠があの二重唱で交叉している。
●第3幕ではカルロスがエボリをエリザベートと見まちがえる場面があるが、それに先立って、エリザベートがエボリ公女が衣装を取り換えるシーンが置かれていた。エリザベートはエボリにお願いをする。宴に疲れたから退出してお祈りをしたい、でもそうもいかないからエボリ、あなたに私の衣装を着てほしい、そうすれば遠目には私に見えるだろうから、と。このような衣装の交換による取り違えはオペラではよくある場面ではあるにせよ、権力と愛の物語であるゆえに、これが「血塗られたフィガロの結婚」である可能性に思い至らせる。
●物語のエンディングはやっぱり唐突。しかも静かにしみじみとあっさり終わる。それまでリアリズムの枠内で物語が繰り広げられながら、主人公たちが進退窮まったところで、神秘的な存在を登場させて強引に話をたたむというのは「デウス・エクス・マキナ」そのものだけど、この作法は19世紀後半には受け入れられうるものだったのか、それともやっぱり奇異なものだったんだろうか。現代だったら、無理に話を閉じなくても開いたままで終わらせればいいやとなりそうなもの。すると「続編があってもいいんじゃないの?」って言う人が出てきて、「ドン・カルロス」エピソード2とかエピソード3を作れる。先王時代の話も入れて実は9部作でしたとか言って壮大な「ドン・カルロス」サーガになるとか。
「クラシックホワイエ」第199回、第200回
●告知を。新潟県民エフエム放送 FM PORTで毎週土曜日夜10時放送中の拙ナビによる「クラシックホワイエ」だが、早いもので今週末に第199回、来週末に第200回を迎える。民放FM局の1時間番組。radiko.jpプレミアムで新潟県外からも聴けるようになり、全国各地のリスナーの方から番組宛ての感想メールをいただくことも。ありがたいかぎり。
●第199回は「ロメオとジュリエット」をテーマに。プロコフィエフ、グノー、ベルリオーズ、チャイコフスキーらの作品から聴きどころを選んで。
●第200回は記念すべき回なので、200にちなんだ曲を特集。というと、セーゲルスタムの交響曲第200番とかをまっさきに思いつくわけだが(?)、そんな音源があるとも思えず、作品番号200の曲などをとりそろえることにした。
●毎週なんらかの切り口を用意するのだが、番組である以上、トークの時間もすべて合わせて1時間の尺にきっちり収める必要がある。そこが悩みどころで、しかしパズルを解くような妙味も感じる。もちろん、最終的にはプロの編集の技があって時間ちょうどで収まるわけだけど。
コルネリウス・マイスター指揮読響で「アルプス交響曲」
●まだセミは鳴いているものの、気候的にはもうすっかり秋。今年の夏は遅く始まって、早く終わってくれた。昨年は9月が終わるころになってもエアコンがフル稼働していた気がするが、今年は8月末からもう冷房要らず。まるで高地に避暑に来たみたいではないか……。
●ということで、3日は東京芸術劇場でコルネリウス・マイスター指揮読響でアルプス登山。新シーズン開幕。ゲスト・コンサートマスターにWDRケルン交響楽団(ケルン放送交響楽団)のコンサートマスター、荻原尚子さん。R・シュトラウスの「アルプス交響曲」ですっかり爽快な気分に。のびやかで壮麗なスペクタクルを満喫。荒ぶる大自然の脅威ではなく、風光明媚としてのアルプス。これしか。ライブならではの高揚感にあふれていた。前半にはアリス=紗良・オットをソリストにベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番。アンコールで一瞬なにを弾こうかとでも思案したそぶりを見せて、まさかの「エリーゼのために」。
●一般に、アーティスト写真と本人に大きな乖離を感じるケースというのがままあると思うんだけど、アリス=紗良・オットはそれが通常とは逆向きに働く稀有な例だと思うんすよ。「アー写」より実物のほうがずっとかわいい。はっ。書いてしまった。
10代のためのプレミアムコンサート、次はアルカント・カルテット
●Sony Music Foundationの30周年記念コンサートシリーズとして、「10代のためのプレミアムコンサート」が開催されている。10代の若者に最高のクォリティの音楽を特別価格で聴いてもらおうというこのシリーズ、これまでに第1回「アラン・ギルバート&ニューヨーク・フィル」、第2回「ベルリン・フィル・ホルン・カルテット」が開かれ、次回が10月5日の第3回「アルカント・カルテット」。後に続くレ・ヴァン・フランセや小菅優&河村尚子のピアノ・デュオと比べても、シリーズ全体でぶっちぎりで10代にとってなじみの薄いのがこの回だと思う。だって、弦楽四重奏。オケでもなくブラスでもなくピアノでもなく、カルテット。
●なので紹介しておくと、この公演、アルカント・カルテットとしてのスメタナ「わが生涯より」、シューマンの弦楽四重奏曲第1番の演奏のほかに、ジャン=ギアン・ケラスの無伴奏チェロ、タベア・ツィンマーマンの無伴奏ヴィオラ、アンティエ・ヴァイトハースとダニエル・ゼペックのヴァイオリン二重奏などが置かれている。各々の楽器をまず聴いてもらって、それから四重奏へとつなげるような展開だろうか。
●10代向けのチケットは1500円と格安。実はこの10代は「小学校1年生〜19才」と定義されており、また保護者は2500円ということなので、たとえば小学1年生のお子さんといっしょに保護者として行けば大人でも堂々と聴けるわけだ。自分が聴きたいがために子供を連れていくという作戦も大アリだと思う。本来の趣旨にもかなっているはずだし。
リディア・デイヴィスの「グレン・グールド」
●ピアニストの名前がそのまま題名になっている短編小説がある。リディア・デイヴィスの「グレン・グールド」(岸本佐知子訳/白水uブックス『ほとんど記憶のない女』収載)。ほんの数ページの短い小説で(といってもこの短編集のなかでは長いほうなのだが)、ストーリーらしいストーリーはなく、なにもない静かな田舎町で、赤ん坊といっしょに主婦が退屈な一日を過ごしている様子が描かれている。彼女は毎日夕方になるとテレビのコメディ「メアリー・タイラー・ムーア・ショウ」を見ている。そんな日常はどうかなと内心思っていたはずなんだけど、あのグレン・グールドも「メアリー・タイラー・ムーア・ショウ」を好きだったということを知って、心底驚き、喜んでいる。あの憧れのピアニスト、知的でエキセントリックなピアニストが、この番組を見ていたなんて!
●主人公はグールドに思いを馳せる。
演奏のために家を留守にするとき、あるいは演奏をやめたあと、レコーディングやその他の理由で家を空けるとき、彼はこの番組を見のがさないように録画していただろうか。それとも観ながら同時に録画して、この番組の完璧なライブラリを作っていただろうか。
●可笑しい、かなり。短い話なのについつい急いでページを先に繰りたくなるのは、「赤ちゃんが生まれて、社会から取り残されたようになってしまっている自分」という、じんわりとした焦燥感が滲み出ているからにちがいない。
シュトックハウゼン「歴年」雅楽版&洋楽版
●サントリー芸術財団サマーフェスティバル2014で、シュトックハウゼンの「歴年」を雅楽版(8/28)と洋楽版(8/30)の2種類の上演で。1977年に国立劇場雅楽公演で初演された作品で、雅楽の楽器のために書かれているが、同時に欧米での再演も考慮して同じスコアが洋楽器(シンセサイザーも含むんだけど)でも演奏できるように、作曲者によって指定されている。なので雅楽版と洋楽版がある。洋楽版「歴年」は巨大オペラ「リヒト(光)」の原型となり、後に「火曜日」第一幕に組み入れられることになった。雅楽版は77年以来の再演であり、洋楽版は日本初演となる。ってことで、OK?
●「歴年」がどんな作品かを軽く説明するだけで2000字くらいにはなってしまいそうだが、それは避けるとして、舞台の様子を極力簡潔に記しておくと、舞台後方に大きな4ケタの数字が表示されている。この数字ははじまりから不定の速度で数値を増やしていき、最後に1977に到達する。ただし数値は本当に一つずつ増えて年号を示しているのではなく、疑似的なカウントにすぎない。舞台奥に雅楽あるいは洋楽器のアンサンブルが位置して、その手前では大きく書かれた4ケタの年号の数字上で、一の位、十の位、百の位、千の位の舞人が踊る。各々の舞人と楽器群には対応関係がある。一の位はすばやく、千の位はきわめてゆっくりと動いて、時の流れを表現する。途中で寸劇が入り、4つの誘惑が舞人の足を止め、音楽と時の流れを遮る。誘惑するのは花束、ソーセージ、電動バイク、若い女性。少女があらわれて客席に励ましの(?)拍手を求めたり、シュトックハウゼンの肖像が描かれた大きな一千万円札があらわれたりする。
●寸劇部分がどんなテイストのものかまったく知らずに雅楽版に足を運んだのだが、これがなんとドリフターズとスネークマンショーの中間くらいのベタさとユルさによる昭和調ギャグ。スクリーン上の謎イラストと合わせてノスタルジア全開で、鳴っている音楽とに激しい乖離を感じる……と言いたいところなんだけど、これら演出部分も多くはシュトックハウゼンの指示によるもので、作品に組み込まれているのだとか。寸劇があまりに古びているからといって、演出で容易に現代風にバージョンアップできるものでもなさそう。
●主たる舞台装置である四ケタの疑似年号は、一の位も十の位も1から7までの数字しかない。7の次に0が来て繰り上がるなら8進法だが、0がなくて1が来る。これは桁上がりしていない、つまり同じところを堂々巡りしているだけ、と読める。百の位と千の位も連動していなくて、百の位が9まで来ると、同時に千の位も1に到達していて、桁上がりがない。「歴年」という題に反して、実は時は流れていない。だから寸劇も70年代そのままなのかも。今日、ソーセージやバイクが「誘惑」という意味との結びつきを失っているとしても。
●この寸劇が作品の根幹をなすものとは思えないんだけど、あまりにインパクトが強すぎて、雅楽版ではそればかりが気になってしまった。洋楽版では同じ寸劇が洋装というか洋風になって出てくるのだが、そちらは二度目なのでもう少し音を聴こうという気持ちにはなれた。4ケタの数に表現されるように4つの時間軸が異なる速度で進み、それが聴覚的にも視覚的にも多層的に併行して進むというアイディア、器楽アンサンブルが生み出す精緻なテクスチャー、歌手によるミヒャエルとルシファーの対話など、70年代寸劇以外の部分ではまた聴きたいと思わされる。でも寸劇は(←くどい)。