●今年の聴き納めはベートーヴェン「第九」。27日、サントリーホールでフランソワ・グザヴィエ・ロト指揮N響。今にして思うと、2007年と08年のLFJでロト指揮レ・シエクルが早くも来日していた(でも早すぎたのかもうひとつ話題を呼びきれなかった)ということがスゴい。あの時点で、数年したらロトがN響の「第九」を振るという未来を思い描いていた人はまずいなかったんじゃないだろか。ていうか、今年はロト&レ・シエクルでレコード・アカデミー賞大賞っすよ!
●この日は「第九」の前にオルガン独奏で4曲。勝山雅世さんの独奏で、ラングレの「中世組曲」から前奏曲、バッハの小フーガ ト短調、コラール前奏曲「恵み深いイエスよ、われらはここに集まり」、ヴィドールの「オルガンのための交響曲」第6番より終曲。一見ばらばらの盛り合わせみたいに見えて、うっすらと4楽章構成が透けて見えるというか、これってミニ「第九」なんじゃないかと思う。
●で、ロトの「第九」、どこまで流儀を通すかと思ったら期待以上で、弦のノン・ヴィブラート、フレージングやダイナミクスへのこだわり、快速テンポなどロトの「第九」になっていた。ノリントンと多数共演してきたN響だからこそという背景はあるんだろうけど、アプローチは近くても、音楽の性格はノリントンとはまるで別物。インスピレーションの豊かさで聴かせるのではなく、造形さえきちんと仕上げればあとはおのずと作品が語ってくれるとでもいうかのよう。熱血「第九」を期待している向きには肩透かしだったかも。でも、客席の反応は悪くない。満喫。勇者ロトの伝説。ぼうけんのしょにきろくする。
●できればロトは定期公演で聴きたい気も。と思ったら、来年の6、7月に読響のほうに出演するのだった。ベルリオーズ「幻想交響曲」、ハイドン「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」等。
News: 2014年12月アーカイブ
ロト&N響の「第九」
ユジャ・ワンを語らない
●こちらも日が経ってしまったけど、17日はサントリーホールでデュトワ&N響。ソリストはユジャ・ワン。前半にドビュッシー~ラヴェル編曲の「ピアノのために」から「サラバンド」、「舞曲」、ファリャの交響的印象「スペインの庭の夜」、後半にラヴェルのピアノ協奏曲、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲(1919年版)。ユジャ・ワンがファリャとラヴェルの2曲を弾いてくれるのがうれしい。なんと、お色直しがあった(笑)。めったにないケースだけど、前後半でソリストに出番があると、そういうことが可能になるのかっ!
●しかし衣裳について説明しようとすると、表現のために必要なボキャブラリーがまったくなくて、手も足も出ないんだなこれが。前半は明るいグリーン、後半はブルー系。タイトミニは封印されていたけど、なんか背中ドバッみたいな感じでハッスルしてました(←投げやりすぎる)。トレードマークの左右非対称お辞儀は健在。しかもお辞儀の後にサクッと袖に引っこむんすよね。うーん、カッコいい。
●と、ピアニストなのに、延々衣裳等の周辺的な話をしてしまわなきゃならないというこの現象。これってアーティスト側の強い批評性を感じる。たとえば美人ヴァイオリニストがベルクの協奏曲で渾身の演奏を聴かせた後の休憩で素敵な感じのご婦人方が「あのドレス、本当にきれいだったわねえ」とため息交じりで語りあうような光景が一般にどこにでもあると思うんだけど、それを一段メタレベルに引き上げて、「決して語られることのない音楽を雄弁に奏でる」という逆説に満ちたポストモダンなアーティスト像を彼女は打ち建てようとしている。わけない?
●でもユジャ・ワンの衣裳と開演前のポゴレリッチのニット帽は、一見逆向きのベクトルながらどこかで通じているんじゃないかなあ。
●ユジャ・ワンが今のユジャ・ワンになる前の映像とか写真を見たことがある人ならわかってもらえると思うんだけど、あの外見的には目立たなくてどこか不安そうな顔つきの少女が、スーパースターのユジャ・ワンに変身したのだと思うと、もう応援したくてしょうがなくなる。「あのユジャ子が本当に立派になって……」みたいな仮想親戚的ポジションというか。
ポゴレリッチのリサイタル
●遡って14日はサントリーホールでイーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルへ。なんだか自分のなかでうまく咀嚼できないまますっかり日が経ってしまった。前回以上に強烈な印象が残ったことはたしか。今回も開演前からニット帽をかぶってステージ上で気ままにピアノを弾いている、ときおり客席に視線をやってこちらを注意深く観察しながら。ポゴレリッチのリサイタルでは、開演前はピアニストがこちらを見るのだ。そして見られている客席の側は、普段の公演と何もかわらない様子で、「ポゴレリッチに見られている自分」をことさらに意識しない。
●今回もピアニストは祭司のようだった。かたわらに譜めくりのお兄さんが影のように寄り添うのも同じ。典礼がはじまる。前半はリストの巡礼の年第2年「イタリア」から「ダンテを読んで」、シューマンの幻想曲ハ長調。東京公演はアジアツアーのなかの一公演で、直前に上海で同じプログラムが披露されている。上海では極端な遅いテンポはほとんどなかったということなんだけど、幻想曲は聴いたこともないような遅いテンポの両端楽章と、猛烈なダイナミズムで演奏されていた。時間軸方向に迷子になるエクストリーム・シューマン。後半のストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」からの3楽章もやはりテンポが独特で、まったく聴いたことのない作品を聴いたかのよう。最後はブラームスのパガニーニの主題による変奏曲。こんな重量級のプログラムが実現するのもスゴいし、強靭なタッチは最後まで陰りも見せない。ピアノから出てくる音そのものからして苛烈かつブリリアントという非凡さ。
●弾いた後の楽譜をバサッと音を立てて無造作に床に放ったり、最後の曲を終えた後にもう弾くものはないといわんばかりに足で椅子をピアノの下に押しこんだりというふるまいは、ピアニストとしても祭司としても異様。
●好きかといわれたら、答えに窮する。でもまた聴きたいかといわれたら、聴きたいと即答できる。仮にまったく同じプログラムだとしても聴きたい。テンポだけに特徴があるわけではないのでそこを強調するつもりはないんだけど、でもあの(音楽の流れというよりは)時間の流れが引き延ばされてゆく眩暈の感覚というのは、まず彼の公演でしか体験できないものだから。
週末はデュトワ&N響からノット&東響へ
●少し日が経ったけど、先週末はすさまじいコンサート・ラッシュだった。13日はTwitterを見ていても、昼の公演と夜の公演をハシゴする人がたくさん。ハシゴのコースは人それぞれだったけど、目立ったのはオペラシティのヤルヴィ&ドイツカンマーフィル(15時開演)→サントリーホールのノット&東響(18時開演)コース。そのコースって、前者のアンコール等の時間も考えると、少し厳しいんじゃないかなと思ってたが、ちゃんと間に合ってたっぽい。
●で、自分はこの日はまずNHKホールでデュトワ&N響へ。武満徹「弦楽のためのレクイエム」、アラベラ・美歩・シュタインバッハーのソロでベルクのヴァイオリン協奏曲、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」という、追悼から新天地へ至るプロ。滑らかで自然体なのがベルク、見知らぬ光景を見せてくれたのがドヴォルザーク。土臭さを感じさせない精妙で鮮麗な「新世界」へ。
●夜はジョナサン・ノット&東響へ。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」とブルックナーの交響曲第3番「ワーグナー」第1稿というワーグナーつながりプロ。一曲目の「ジークフリート牧歌」から思いのほか豊潤な響きが聞こえてくる。ブルックナーの第3番は油断していたらよもやの初稿。なんというゴツゴツした手触りなの。粗削りで、制作途上の作品を聴いているという感覚がどうしてもぬぐえず。でも野心的でおもしろい。スケルツォなんて、どうしてこんなヘンテコなリズムなのかと思うけど、これを聴いた後で最終稿を聴いたらずいぶん物足りなく感じるにちがいない。強奏時にも十分重量感があって、しかも響きに柔らかさが感じられるブルックナーを満喫。
●ブルックナーの異稿を楽章よりさらに細かい単位でモジュール化して録音しておいて、「手軽に作れるマイ異稿」みたいなサービスがどこかにあるんじゃないかと夢想してみる。
新日本フィルの次期音楽監督に上岡敏之
●16日は東武ホテルレバント東京で新日本フィルの次期音楽監督発表記者会見。次期音楽監督がだれになるかというのは、会場に足を踏み入れた時点で登壇者のネームプレートを見てわかった。でも事前に予想していた方も少なくなかったのでは。少し前に、HMVの記事などで、上岡さんがヴッパータール市の音楽総監督およびオペラ・インテンダントのポストを2015/16年で早期退任すること、その際に日本でオーケストラのポストに着く考えがあることが伝えられていた。その直後、新日フィル次期音楽監督発表記者会見のお知らせを受け取ったので、「ということは?」。12月24日にソロ・コンサートマスター崔文洙&上岡敏之(ピアノ)デュオ・リサイタルが予定されているのも目をひいた。
●音楽監督就任は少し先で2016年9月から。また、2015年4月よりアーティスティック・アドバイザーに就任する。宮内義彦理事長は「アルミンクの退任後、音楽監督を探してきたが、次期監督の選定にあたっていちばん最初に名前が挙がったのが上岡さん。当初はドイツでのヴッパータールとの契約からとても無理ではないかと思ったが、こうして実現にいたって喜んでいる」。
●檀上は終始和やかでリラックスした雰囲気。「新日本フィルをはじめて指揮したとき、最初のリハーサルからとても準備されていて、日本にこんなオーケストラがあるんだと驚いた。僕にとっては日本のオーケストラで初めてのポスト。もうドイツのほうが長く、ドイツでの大学のポストもあるから帰国して日本に住むかどうかはわからないけど、とても光栄に思っている。いい方向に進んでいけたらと思う」「人に感動を与えられるオーケストラ、一音を聴いただけで新日本フィルとわかるオーケストラにしたい」(上岡さん、写真右)。「初共演の印象がすごく強くて、なんて引き出しの多い指揮者なんだろうと思った。言葉でいちいち説明しなくても理解しあえる、同じ方向性を共有していると感じた。こういう経験はめったにないこと」(崔さん、写真左)
●少し先の話だが、上岡さんは音楽監督就任に先立って、2016年3月16日のサントリーホール定期を指揮する。曲目は未定。
●今回の会見はUstreamで生中継されたが、反響はどうだったんだろうか。
R・シュトラウス「イノック・アーデン」
●「逆第九現象」(仮説)のおかげで猛烈なコンサートラッシュとなったこの週末。駆け込み的にたくさん見聞きしたが、ひとつ印象が鮮烈な内に。14日、汐留ホールでリヒャルト・シュトラウスの「イノック・アーデン」を聴いた。ピアノは鈴村真貴子、朗読は山下淳。アルフレッド・テニスンの詩「イノック・アーデン」の訳詩朗読に、シュトラウスの音楽が添えられるというメロドラマ・スタイルの作品。
●「イノック・アーデン」といえば、かつてグレン・グールドが録音してくれたおかげで知った作品。作曲は1897年。すでに大半の交響詩を書いた後、オペラ作曲家になる前の時代の作品ということになる。上演時間は訳詩や朗読次第ではあるんだけど、今回は正味95分程度、プラス間に15分の休憩。実は長い(グールドの録音よりずっと)。そして、ピアノが演奏している時間はかなり少なく、あくまでも朗読が柱になっている。物語が大きく展開する場面に音楽が添えられて盛り上げるというよりは、物語が大きく展開した後の心情のほうがピアノで掬い取られている感。これは当然といえば当然で、なにせ朗読であって歌唱ではないので、言葉と音楽を同時に強奏させるのは基本的に困難なので。
●テニスンの「イノック・アーデン」には、すごーくイヤな部分が2つある。1つは親子が離れ離れになる話であること、2つは赤ん坊が死ぬこと。でも、とてもよくできている。あらすじだけ紹介しておくと、登場人物は幼なじみの3人。船頭の息子で腕っぷしの強いイノック・アーデンと、粉屋の息子で気のやさしいフィリップ・レイ、そしてヒロインとなるアニー・リー。3人は仲良く子供時代を過ごし、やがて成長するとともに男子二人がアニーに恋するという、あだち充的な三角関係が発生する。アニーは二人の男子に複雑な気持ちを抱く。そして、もちろん、強い男イノックがアニーと結婚する。おとなしいフィリップは悲嘆に暮れる。
●イノックは船乗りになって懸命に働き、アニーとの間に子供たちを儲け、幸せな家庭を築く。ところがイノックがはるか遠い異国への船旅に出たところ、嵐に巻き込まれて船は難破し、イノックは漂流生活を送ることになる。夫からの便りもなく、アニーは寂しさと貧しさに耐える日々を送るが、そこに今や裕福な粉屋となったフィリップが救いの手を差し伸べる。フィリップはアニーの子の学費を賄い、実子同然に面倒を見る。だが、アニーとの間には一線を画して、イノックの帰りを待つ。
●そして10年の月日が流れた。子どもたちは育ち、フィリップはアニーに求婚する。ためらった末にアニーはフィリップを受け入れ、やがてフィリップとの間にも子供が生まれる。そこに、長い長い漂流の末に別人のように衰えたイノックが町に帰ってくる。腰は曲り、背も低くなり、だれも彼がイノックとはわからない。イノックはそっとアニーとフィリップの一家の幸せな様子を目にして、このまま気づかれないように身を引こうと決意する。体が弱り死を間近に迎えたイノックは、宿屋の女将にだけ自分の正体を明かし、自分の死後にアニーとフィリップ、子供たちに祝福の言葉とイノックはもうこの世にいないことを伝えてほしいと懇願し、息絶える。
●この話は一見、強い男イノックと控えめなフィリップの二人によるくっきりしたコントラストを描いている。しかし最後にひっかかりを残すのはイノックのふるまいだろう。イノックは自らの運命を受け入れて英雄的な行為に及ぶ。が、宿屋の女将の「イノックがもうこの世にいないことを知ればアニーはほっとするだろう」という言葉を聞いて、最後に自分の正体を明かしてしまうのはどうだろうか。イノックの死後、彼が町に帰ってきたことを知ったアニーやフィリップは、その事実のとてつもない重さに耐えて生きなければならない。そこで気づくのは、実のところ、強い男はフィリップのほうであって、イノックは弱い男だったんじゃないかということ。イノックは天運に身を任せるような生き方をして、その結果として過酷な道を歩んだ。一方、フィリップは自らの選択によって、アニーとイノックの子を育て、10年間を待った。子供たちは育つとともに、その姿に恋敵の面影を宿すようになったにちがいない。イノックの強靭な肉体はやがて朽ち果てたが、フィリップの不屈の意志は年月を経ても衰えない。
●もうひとつ、この話がシンボリックに描いているのは、マチズモの終焉だろう。イノックからフィリップへ。荒っぽい船乗りの時代から、粉屋の商人の時代へ。世紀の変わり目を迎えつつあったシュトラウスはこの物語のどんなところに共感を寄せたのだろうか。
●朗読者とピアノの二人で上演可能なこともあってか、この作品の上演機会は案外少なくない。でもワタシは今回が初めて。実演に接すると朗読パートはかなり持続力が必要なことがわかる。この物語、あまりにエモーショナルに演じられるとしんどいなと心配していたんだけど、山下淳さんの朗読も鈴村真貴子さんのピアノも節度と情感のバランスが絶妙だった。音楽はまぎれもなくシュトラウス。冒頭ピアノの悲劇的な予感を漂わせる「波」に、一瞬ブリテンの「ピーター・グライムズ」を連想する。
●ところで「イノック・アーデン」の物語のと同じ骨格を持った話はいくつもある。映画「シェルブールの雨傘」? いや、ワタシがまっさきに思い出したのはアメリカの人気ゾンビ・テレビドラマ・シリーズ「ウォーキング・デッド」。シリーズ1はまさにこの通りの話になっている。「イノック・アーデン」のなかで、故郷に帰ってきたイノックが「死んだ人間が生きて帰ってきた」と自分を表現する場面があるが、「ウォーキング・デッド」の脚本家はこれを読んで、テニスンの物語が未来のゾンビ禍を射程に収めていることに気づいたはずである。
パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツカンマーフィルの「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」
●毎年12月上旬はものすごくコンサートが立てこむような気がする。そして下旬はぐっと落ち着く。心のなかでこれを「逆第九現象」(仮説)と名付けている。
●で、12月の目玉公演、東京オペラシティでのパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマーフィルの「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」。4公演にわたってブラームスの交響曲4曲+協奏曲4曲他を一挙に演奏。その初日(10日)と二日目(11日)へ。初日はピアノ協奏曲第1番(ラルス・フォークト)、交響曲第1番、二日目は「ハイドンの主題による変奏曲」、ヴァイオリン協奏曲(クリスティアン・テツラフ)、交響曲第2番。いずれも刺激的で鮮度の非常に高いブラームスだったが、特にインパクトがあったのは交響曲第1番。クリシェを排して再構築したら、生き生きとして、楽しげなブラームス像が浮かび上がってきたというか。極限まで精妙さや均質さを追求して響きの芸術を作りあげるスーパー・オーケストラたちとは、まったく逆の方向性で突きつめられたアンサンブルで、才気煥発とした個々のプレーヤーの集合体としての室内オーケストラという印象。あとテツラフの暴れっぷりが強烈。潤いレスで、切迫感あふれる崖っぷちのブラームス。
●両日ともアンコール2曲、一般参賀あり。会場の反応も鋭敏。中一日の休みを置いて、土日に後半が続くんだけど、ワタシは都合によりこの二日間のみ。大長編を前編だけで止めてしまうような悔しさもあるが、それでも十分にエキサイティングな体験だった。あとは、任せた……ぐふっ。
大野和士&都響のバルトークとフランツ・シュミット
●8日は大野和士&東京都交響楽団を聴きに久しぶりの東京文化会館へ。約半年間休館していた文化会館だが、大ホールは12月3日から再開。リニューアル後初めて足を運んだ。これってなにを改修していたんだっけ?と思い、文化会館のサイトを見てみると「大小ホール・ホワイエの天井その他建築改修」「舞台照明・音響・装置の更新・改修」「空調・給排水・電気設備等の更新・改修」が主な内容なんだとか。
●プログラムは前半にバルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」、後半にフランツ・シュミットの交響曲第4番という、1930年代プロ。貴重。バルトークの弦楽器を二群に分ける空間的な音響効果というのは、客席がある程度舞台から離れると水平角もあんまりなくなるし、直接音はそんなに届いてないだろうから効果はかなり限定的なんじゃないかという気もするけど(むしろチェロが後列に置かれることのほうが響きの違いを生んでるような?)、それでも作品が持つ力は絶大。ビバ、モダン。終楽章はスリリングで、熱っぽい迫真のバルトーク。
●バルトークから一転して、フランツ・シュミットの交響曲第4番は濃厚なロマンティシズムが横溢する作品。トランペットのソロで始まり、トランペットのソロで終わる。哀悼とノスタルジーの音楽で、情感豊か。作品世界に没頭できるか、たじろいで一歩退くのかという試金石を持たされた気分に。
●トヨタAQUAのCMに登場する「ドラゴンクエストIII」の「冒険の旅」は、都響の演奏なんだそうです。一眠りしてヒットポイントもマジックポイントも全開する憧れの世界。DQ3はメインテーマも名曲。
東京交響楽団2015年度シーズン記者会見~ジョナサン・ノット、Season 2を語る
●8日昼はミューザ川崎のホワイエで東京交響楽団2015年度シーズン記者会見。前日にマーラー「千人の交響曲」公演を終えたジョナサン・ノットが登壇。最初に大野順二楽団長の挨拶があった。「(昨日の公演を成功裏に終えて)今とても幸せな日々を過ごしている。楽員一同、音楽監督が来る前はそわそわする」と、ノットへの期待と共感が語られた。
●就任会見でも感じたことだけど、ノットの話は明快で、型にはまっていない。自分と楽団との旅の現在地点をまず語ることから始めたいとして、まずは前日の「千人の交響曲」のリハーサルについてから。「オーケストラの音楽作りには感銘を受けた。日本人音楽家たちの典型的な良さがあらわれていて、技術的に高く、だれもがリハーサルに集中して臨み、自分の要求にもすぐにこたえてくれる。次のリハーサルになっても、前回での指示をしっかりと覚えていてくれる。これらはヨーロッパの楽団にはない美質。そしてこのオーケストラでもっともすばらしいと感じたのは、感情的な表現についての成長ぶり。ひとつひとつの公演に情熱を持って取り組みたいし、コンサートは決して昨日のリハーサルの繰り返しであってはならない」「ゲネプロの前のリハーサルは技術的な精度も高く、音程も正確で、本当に音がそろっていた。しかし私にとっては、安全すぎる演奏でもあった。感情を伝えるより、音をそろえることが優先されていた。そこでゲネプロではいろいろなことを試してみた。するとオーケストラはばらばらになる。でもそこに生まれる強さ(インテンシティ)や集中度にこそ、まさに音楽がある」。
●「千人の交響曲」の公演を大成功だったと振り返りつつ、さらなる成長を続けるためのレパートリーを選んだとして、来季のラインナップが紹介された。年間パンフレット(PDF)にあるように、ノットは来年6月にR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」+ブルックナーの交響曲第7番、7月にベートーヴェンの交響曲第5番他、9月にマーラーの交響曲第3番、11月にリゲティの「ポエム・サンフォニック」+ショスタコーヴィチの交響曲第15番他等を指揮。レパートリーの幅広さが反映されたプログラムで、それぞれにテーマ性なり意図なりが込められているが、全体としては「生と死」というテーマでゆるやかにくくられている。
●ノットが来季特に求めていきたいとして挙げたのは、ソノリティ(響き)、そしてヴィルトゥオジティ。ソノリティについてのひとつの例として、たとえば同種の管楽器間でのバランスについて、「1番奏者は大きく、2番奏者は少し小さく、3番奏者はもっと小さく演奏するという伝統的なヒエラルキーが順守されているけれど、その逆を求めた。すると演奏そのものががらりと変わった」という話が紹介されていた。
●ノットの会見って、中身の濃い「プレゼン」っていう感じがして、出席するかいがある。今にもパワポのスライドが出てきそうな勢いで。出てこないけど。
デュトワ&N響でドビュッシー「ペレアスとメリザンド」
●7日はNHKホールでデュトワ&N響によるドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」。歌手陣、オーケストラともに高水準の演奏で、得難い体験になった。音楽と言葉の結びつきが強い(らしい)うえに、数カ所を除いて延々とpとppの音楽が続くような作品とあって、録音ではなかなか聴き通せないんだけど、こうしてクォリティの高い実演に接すると作品に対するイメージがぐっと鮮やかになる。歌手陣はペレアスにステファーヌ・デグー、メリザンドにカレン・ヴルチ、ゴローにヴァンサン・ル・テクシエ、ジュヌヴィエーヴにナタリー・シュトゥッツマン、アルケルにフランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ他。万全。3幕の後に30分の休憩を入れて計3時間20分ほど。
●作品について改めて感じるのは、これがドビュッシーによる「トリスタンとイゾルデ」であること。トリスタン、イゾルデ、マルケ王の三角関係は、ペレアス、メリザンド、ゴローの三者に移植される。第2幕第2場の間奏曲は、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」第3幕の前奏曲を思い出させずにはおかない。闇と官能の音楽。その後に続く洞窟の場面では、ドビュッシー自身の交響詩「海」がこだましている。
●登場人物ではゴローの苦悩に焦点を当てて見た。ペレアスとメリザンドは記号だけど、ゴローは実在。「フィガロの結婚」においてフィガロとスザンナがファンタジーで、アルマヴィーヴァ伯爵が現実であるように。
●メリザンドはウツボカズラみたいな女で、男を絡め取るためのワナを張って生きている。不幸になりたい女、不幸にしか生を感じられない女。割と世間でよくいるタイプかも(?)。そして、すぐになんでも失くす。君、水難の相が出ておるね。泉で冠を失くし、指輪をなくし、しまいに恋人を失くす。それも失くすべくして失くしている。不幸にしか生を感じられない女だから、わざと崖っぷちに立ってしまう。メリザンドの出自は最後まで語られないが、彼女はセイレーンの別形態というべきだろうか。ドヴォルザークの「ルサルカ」なんかと同系統のオペラともいえる。
カンブルラン&読響でメシアン「トゥーランガリラ交響曲」、ヒューイットのタブレットPC
●4日はサントリーホールでカンブルラン&読響。酒井健治「ブルーコンチェルト」(世界初演)とメシアン「トゥーランガリラ交響曲」。「ブルーコンチェルト」は読響委嘱作品、「トゥーランガリラ交響曲」はカンブルランが2006年12月の読響との初共演でも演奏した作品。読響が満を持して取り組んだ公演で、同じプログラムが来年の3月の欧州ツアーでも演奏される。「トゥーランガリラ交響曲」のピアノはアンジェラ・ヒューイット、オンド・マルトノのシンシア・ミラー。ヒューイットはわざわざこの一公演のために来日したのだとか。会場内はTwitterのフォロワーのみなさんから業界関係者から、自分の知人が一斉にここに集まったんじゃないかと錯覚するほど。一方で空席もあるんだけど。
●本来「トゥーランガリラ」という作品の饒舌さ、濃厚さにはただただ圧倒されてたじろぐばかりなんだけど、この日は感じたのは明瞭さ。官能性はずいぶん後退して、代わって透明感、緻密な響きが生み出す愉楽みたいなものが一貫して感じられた。客席はわきあがった。
●で、本筋とは違う話なんだけど、目を奪ったのはヒューイットの譜面台。タブレットPCが置いてあった(iPadかどうかは知らない)。それ自体はもうそんなに珍しくはないにしても、オケと共演するのに使っているのを実演で見たのは初めてかも。画面にタッチして譜をめくっている様子がないので、なんらかのデバイスを無線でつなげているんだろうと思ったら、どうやらフットスイッチを使っていた模様(こんな感じでいろんな商品があるんだそうです)。たぶん左足で操作できる位置に置いていた。
●こんなふうにタブレットを使うときって、バッテリーの充電はもちろんのこと、事前に再起動しておくとか、予期せぬ動作を防ぐためにバックグラウンドで動作するアプリを最小限にするとか、いろんな運用上の工夫があるにちがいない。でもどんなアプリやOSを使うにせよ、落ちるときは落ちるわけで、フリーズしたり強制再起動がかかったりするトラブルはきっとあると思う。そういう事態になったとき、どうやって対応するのかなあというのは少し関心がある。
カンブルラン&読響で「ライン」「英雄」、ダン・タイ・ソン、USEN B68
●少し遡って、28日はサントリーホールでカンブルラン&読響。モーツァルトの「魔笛」序曲、シューマンの交響曲第3番「ライン」、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」という変ホ長調プロ。「ライン」冒頭は3拍子を2拍単位で分割していて拍子がよくわからなくなる曲の代表だけど、「英雄」も第1楽章で同じように3拍子が2拍単位に分割されて強拍の位置がずれるパッセージが出てくる。こういったヘミオラの活用、キープレーヤーとしてのホルンなど、調以外にも共通項があって、練りあげられたプログラム。どの曲にも指揮者の意匠が凝らされていたと思うけど、特に楽しんだのは「英雄」。かなり速いテンポが採用され、冒頭からまるで軽快な舞曲のように響く。小気味よくスタイリッシュなベートーヴェン像が提示される一方で、たぶん、オケ側でナチュラルに持っているであろう重厚で気迫あふれるベートーヴェン像が混じりあって、両者のせめぎ合いから勢いのある生々しい音楽が生まれてきたという印象。
●27日は紀尾井ホールでダン・タイ・ソン。前半にプロコフィエフ「つかの間の幻影」抜粋、シューマン「ダヴィッド同盟舞曲集」、後半にラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」「ソナチネ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」「ラ・ヴァルス」。お目当てはシューマンだったけど、後半のラヴェルが期待以上にすばらしかった。端正で緻密な音楽をベースとしつつ、ライブならではの熱さ、ポエジーも。アンコールはショパンのノクターン ト短調op.37-1。
●告知をひとつ。USENのB-68チャンネル「ライヴ・スペシャル ~CLASSIC~」、今月のプログラムは、上旬と下旬で2回にわけて「VOCES8のクリスマス・コンサート」。2012年王子ホールでのライブ音源。ナビゲーター役を務めた。