●主観と客観には大きな違いがある。
●【客観的事実】 久しぶりにリアル・サッカーをした。1年半か2年ぶりくらいの草サッカー。間があいたのでもうプレイする機会もないかもしれないと思っていたのだが、幸運である。お相手はいつもの某オーディオ・メーカー様。前後半あわせて35分という試合だったが、この日も開始5分でワタシはスタミナ切れ。フルコートは広い。謙遜でもなんでもなく本当にヘタクソなのでチームには迷惑をかけっぱなしだったのだが、前半終了直前に1ゴールを決めることができた。サイドからサッカー経験者がやさしいクロスボールを入れてくれ、ワタシがフリーで右足で蹴ったら運良くゴールに入ってくれた。結局、試合は2-3で負けたが、日頃練習もしていないチームとしては上出来だろう。個人的にはゴール以外は拙いプレーばかりで、反省点が山のように残った。
●【主観的幻想または妄想】 転がるボールは人を熱狂させる。熱狂はキックオフ直前にピークに達し、スタミナが衰える開始5分で跡形もなく消え去り、甘い幻想は打ち砕かれてしまう。せっかくフォワードでのプレイを任せてもらったにもかかわらず、自分の足元にボールが入るという貴重な機会に、連続して何度もボールを失い続けてしまい、もともとあるはずもない自信がさらに失われる。自らの技術のなさと判断の遅さに絶望し、フィジカルの弱さと視野の狭さに呆れ、せめて守備で貢献しようにも体は言うことを聞いてくれない。わずか20分しかない前半が終わろうとする頃には、羞恥と絶望と疲労で全身が満たされていた。しかし。
●前半ロスタイム、中盤のサッカー経験者が右サイドに正確にパスを通す。受けた選手も経験者である。彼はマークについていたディフェンダーを個人技でかわそうとする。ここでゴール前に走りこまなければワタシはなんのためにピッチに立っているのかわからない。力を振り絞り、ゴール前の空白地帯へと疾走する。右サイドの経験者は期待通り、鮮やかに敵をかわして、低く優雅に弾むクロスボールを送り込んでくれた。ボールはワタシの立つ位置へ、それも右足で蹴るタイミングに完全に同期して転がっていることがわかった。ワタシの周囲にディフェンスの選手はいない。この瞬間、ワタシはゴールの位置も、ゴールキーパーのポジションもまったく確認しようとは思わなかった。シュートを打たなければいけないという意識すらなかった。代わりに数日前にテレビで観たレアル・マドリッドのロナウドの初ゴールを思い出していた。
●あの時、ロナウドは完全にフリーで、バウンドするボールに慎重にタイミングをあわせて右足を振り抜いた。解説の柱谷氏が「ボールを蹴るまで、一瞬スタジアムの時間が止まったようだ」と表現したが、観戦していたワタシもまさにそう感じた。その時間の止まったかのような感覚が、いまテレビではなく自らの身体を使うリアルなフットボールに訪れていたのだ。意識は完全な空白となり、ただ本能が右足を振り抜けと命じ、ややハーフボレー気味だった(らしい)ボールを蹴り込むと、球体はゴール右隅、高さ80cmほどの位置へと吸い込まれていった。蹴ったと同時にゴールが決まることがわかったが、実際にネットに入るまでの待ち時間は永遠のごとく長かったので、その間にワタシは球体の軌道を観察しながら考えた。「キーパーの位置も確かめていないのに、なぜそこに蹴ればよいことがわかったのだろうか。蓋然性の悪戯なのだろうか、それとも意識下のなにかが覚醒した意識の代わりに判断してくれたのであろうか」。ワタシの体は控えめに喜びを表現し、仲間たちの祝福を受け、照れくさそうに自陣へと戻った。だがワタシの意識の中の光景は違う。サンチャゴ・ベルナベウの10万6000人の観衆が猛然と立ち上がり、狂ったように叫びながら喜びを表現していた。「ゴーーーール!ゴルゴルゴルゴル、ゴォオオオーーール!」 ありがとう、サッカーの神様。ワタシを見捨てることなく、力を与えてくれて、本当にありがとう。
●つまり、主観と客観には大きな違いがあるわけだ。(10/12)
Useless: 2002年10月アーカイブ
October 12, 2002