●人間の記憶力っていうのは何歳くらいから衰えはじめるものなんだろか。全然医学的な話ではなく日常的な実感からいうと、大人になった頃にはもう衰え始め、以降は加速度的に劣化していく気がする。なんてことを顕著に感じてしまうのが「度忘れ」の瞬間。よく知っているおなじみの超名曲を耳にして、「あれ、これなんていう曲だっけ」と曲名が出てこなくて狼狽してしまったりする。
●曲が流れている。「飯尾さん、これ、ドヴォルザークの交響曲第8番でしたよね」。人からこう尋ねられた。ええっと、このメロディ、いやあ、これ昔は大好きで毎日のように聴いていたこともあったなあ、あれれ、でもこれって8番だったっけ。うーん、よく知っているはずの8番がすぐに思い出せないぞ。落ち着け、作風からしてドヴォルザークなのはまちがいない。第9番「新世界」ではない、第7番とも違うのは確かだ。第6番でもないし、それより以前の作品にこんなに人口に膾炙したメロディがあるとは思えない。そうだ、やっぱり第8番だ。なんだか懐かしいなあ。
●「そう、第8番だったよな……確か」とイマイチ腑に落ちないままムリヤリ納得していると、そのうちにチェロの独奏が入ってきてチェロ協奏曲だったと気がつく(おいおい)。もはや末期的だな、これは。
●こんなことはよくあって、特にドヴォルザークとかチャイコフスキーとか、親しみやすいメロディを作る天才のような人が書いた名曲が危ない。あれ、これ何だっけと思って、必死に頭の中で曲の続きを先行早送りさせていくと、そのうちに記憶が大砲の音を鳴らしてくれて序曲「1812年」だったと思い出すとか。つまり曲は憶えていても曲名とつながってくれないわけだ。
●だからコンサートのアンコールが危ない。曲名も知らされずに、誰でも知っているような小品が演奏され、そしてその曲名をどうしても思い出せないという罠。ああ、いま「今日のアンコール、なんでしたっけ?」なんて人から聞かれたら恥ずかしいぞ。ある日、終演後、帰ろうとすると知人とばったり出会った。「どうも、ごぶさたしてます」。だ、大丈夫だ。今日のアンコールは「フィガロの結婚」序曲だ。これはさすがに思い出せる。「ああ、お久しぶりです」と挨拶を返して絶句。うーん、出てこない。思い出せないのだ、この昔からよく知っている知人の名前が……。
Useless: 2007年2月アーカイブ
たしか、この曲は……
寿司カレー伝説
●ガキを寿司屋につれてくるな。あなたはそう思うかもしれない。子供は寿司の味なんかわかりゃしない。「ワサビ抜いて」とかふざけたことを言ったりするメンドくさい存在である。では寿司屋にとって宇宙一迷惑なガキとはだれか。おそらく、それは35年ほど昔のワタシである。
●両親に連れられて近所の寿司屋に行った。日曜日である。寿司屋のカウンターに座って、このガキは不満を抱いていた。
「こんなはずではなかった。今日はカレーを食べる日なのだ」
●当時わが家では日曜の夜はカレーライスと献立が決まっていた。子供はカレーが好きである。今にして思えば、このルールは日曜に母親の負担を軽くしようとして定められたのだろうとわかるし、もっと積極的に日曜夜を「家事の休日」とするために寿司屋で外食という選択肢が採られたのだとも推測できる。
●だがそんな親の都合を子供は絶対に理解してくれない。ガキはトロにもウニにもイクラにも目をくれず、ひたすらカレーのことを考えいてた。
「なんと悲しいことであろうか、日曜にカレーが食えないとは」
思考を反復させることで、バカガキ特有の作用として自己憐憫が増幅され、これが理不尽なまでに高まった。「自分はかわいそうな子供だ」、そう思い始めたらキリがない。悲嘆にくれ、ついに高ぶった感情が体の中で収まりきらなくなり、爆発した。
「うわああーん、ボク、カレーが食べたいよ~」(滂沱)
●家族で寿司屋に来たら、カレーを食いたいと泣き叫ぶガキ。川に捨てられないだけでもありがたいと思わねばならぬ。寿司屋の大将とその奥さんに、両親は平謝り。それでもガキは泣き喚く。寿司がイヤかといえばそうでもないだろうが、もはや泣くことが自己目的化したガキに論理は通用しない。他の客におかまいなしに、延々と泣き続けた。
●ところが、不意にあるはずのない解決が訪れた。大将の奥さんが店の奥から、カレーライスを持ってきてくれたのである。これにはさすがにガキも驚いた。どうして寿司屋にカレー。疑問を抱きつつも、急におとなしくなってカレーを食べた。ウチのカレーとは少し違う、でもおいしいカレー。あのカレーは奥さんが慌てて作ってくれたのだろうか、それとも寿司屋の家でも日曜はカレーと決まっていたのだろうか? 今でも寿司を食べるとワタシは思い出すのだ、あの辛くて甘いカレーのことを。
出来
●重版出来。拙著「クラシックBOOK」(三笠書房・王様文庫)。週末なので、また書影を出しちゃうけどお許しを。今回は小さめにしておこ 。[amazon/bk1]
●「ほぼ日」の「声に出して読めない日本語。」でも取り上げられていた、「重版出来」の読みは「じゅうはんしゅったい」。読めない日本語っていっぱいあるっすよね。ていうか、あの連載、フツーに読めない熟語も出てくるけど、「LAFORET HARAJUKU」とかそういうネタも多かった。
●「LAFORET HARAJUKU」は「らふぉーれ・はらじゅく」。まあそりゃそうなんだけど、こうなると、あえて堂々と「らふぉれっと・はらじゅく」と発声してみたくなる。いや、クラヲタらしく「HARAJUKU」もフランス語読みすべきと主張するのも一手かもしれん。
●「『涼宮ハルヒの憂鬱』谷川流」とかも出題されてた。鋭い。書店行くと必ず目にするもんなあ。で、涼宮ハルヒってなにか気になるでしょ。でも気にしない(えっ)。
●あとスゴいと思ったのは「関ジャニ∞」。読めるか、それ。絶対読めない、「かんじゃにえいと」。「かんじゃに」もわからんけど(セリエCくらいでプレイしてるアフリカ系選手のイメージだな、カンジャニ)、「∞」を「エイト」って読むんすよ! 無限大の立場はどうなるのか。もう今にもゼロで割っても無問題な感じのカンジャニ=エイトさん。セリエB昇格目指して、がんばってください。
「2001年宇宙の旅」と「一つ目の巨人」
●たまたまテレビをつけたら、NHK-BSで映画「2001年宇宙の旅」が放映中。HALがわけのわからんことを言い出したので、乗組員がスペース・ポッドのなかでマイクを切って「あいつ、おかしくなったんじゃないの」と会話する場面。ついそのまま最後まで見てしまった……。もう何回見たことやら。すぐにHALの叛乱の場面、そしてリゲティの音楽に乗ってサイケデリックな抽象アナログ特撮画像のシークエンス~エンディングへと向かう。
●なんど見ても鳥肌が立つシーンってのがいくつかあって、たとえば糸の切れた凧のように宇宙空間に投げ出されたフランク・プール、それから続く冷凍睡眠中の乗組員の生命停止。叫び声も恐怖の表情もなにもない、もっとも静かな死の場面。それと、やはり最後のボウマン船長が、そしておそらく人類が進化の階梯を昇ることを示唆するスターチャイルド誕生の場面。R・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」冒頭が再現する場面である。当初、映画にはアレックス・ノースの音楽が使われるはずで、曲もできていたんだけど、キューブリックはこれをシュトラウス(両方)やリゲティらの音楽に差し替えた。おかげでワタシらはこれを音楽映画としてすら楽しめる。あ、「失われた宇宙の旅2001」とか、おもしろかったっすよ。原作者クラークと監督キューブリックの共同作業の様子が書かれていて。
●映画のなかで、HALは赤い非常灯みたいに描かれてて、この光の具合がなんとなく感情表現をしているように見える。ボウマンとプールの会話を読唇するときは興奮したような赤い光、乗組員の生命維持装置を停止させる場面では冷酷な赤い光、ボウマンに機能をシャットダウンさせられる場面では恐怖に慄く赤い光、といったように。ワタシは自分じゃ気づかなかったけど、「HAL=サイクロプス(一つ目の巨人)」という読み解き方をしている方がいて、あっそうだったかと思った。赤い単眼といえばサイクロプス(キュクロプス)。ギリシャ神話で……えっと、なにした人、じゃないや神様だったっけ。
●音楽の世界にもサイクロプスはいる。ラモーのチェンバロ曲集のCDにはたいてい入っている、3分ほどの小曲「キュクロプス(一つ目の巨人)」。チェンバロ一台で弾かれるんだから、ずいぶん小さな巨人ではあるが、これはこれで激しく荒々しい音楽なんである。ワタシが聴いてるディスクはクリストフ・ルセのとケネス・ギルバートのだけど、トレヴァー・ピノックのは写真のように一つ目がジャケットに描かれている。