●ふと通りかかった近所の医者に「インフルエンザ予防接種 2500円」の貼り紙が掲示されていた。そうだ、今年はまだ予防接種を打っていなかったのだ。しかしこんなところに医者があったとは。行きつけの内科は4000円なのにずいぶん安いなあ。思い立ったが吉日でいま打ってしまえと、思い切って見知らぬ医者に足を踏み入れた。「コンチワ!」
●入ってみると案外中は広い。広すぎて寒々としている。建物は古い。人はいない。空いていて助かった。受付で尋ねると、すぐに打ってくれるという。名前を呼ばれて診察室に入ると、そこにいた先生は80歳は超えていると思われる腰の曲がったお年寄りであった。
●えっ、この先生が打つの? 一瞬ひるんだが、なにをとまどっているのだ、自分は。自分の知っている80代の老人を思い浮かべてみよ。ロリン・マゼール、ニコラウス・アーノンクール、ピエール・ブーレーズ、ベルナルト・ハイティンク……。みんなバリバリと働いている。働いているどころかジェット機で世界中を飛び回ってパワフルに指揮している。スクロヴァチェフスキなんて90代だ。それを考えれば注射一本くらいなんということもないはず。
●老巨匠はおもむろに注射器を手にした。すでに注射器を構えただけで、全身からオーラが発せられている。言葉はなくともジェスチャーだけで、どんなウィルスを打ち負かしたいのかが伝わってくるかのようだ。一切の無駄のない効率的な手つきで注射針を皮膚に突き刺す。緩やかなアダージョの序奏に続いて、活発なアレグロの主部で薬液がよどみなく流れ込んでくる。今まさに血中で抗体が生まれてくるかのような躍動感! 注射針を抜いた後にはしみじみとした寂寥感が漂って、透徹した抒情を湛える。まさに巨匠ならではの至芸。深遠な精神性を感じさせる名注射といえよう。推薦。
Useless: 2013年12月アーカイブ
December 6, 2013