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zombieの最近のブログ記事

October 2, 2024

ゾンビと私 その43 御岳山ハイキング、14年後…

御岳山ハイキング
●当ブログ内の不定期連載「ゾンビと私」だが、4年にわたって連載が中断していた。なぜか。それはもちろんゾンビ禍がコロナ禍として現実化してしまったからである。現実が追いついた、というか、すでに追い越している。ウイルスに対抗して、天才科学者がメッセンジャーRNAを用いたワクチンを新たに開発し、ワクチン接種作戦が全世界的に行われるというSF的な展開をだれが予想できただろうか。もともとこの連載は、ウイルスの増殖により街にゾンビがあふれてしまったとき、どこに逃げるべきかを考察する連載だった。そして、先行研究も踏まえた結果、近郊の低山がよいという結論に達した。この結論はコロナ禍によって裏付けされたといっても過言ではない。すなわち、人の疎らな場所で、なおかつ都市からのアクセスが比較的容易な場所だ。都知事が言っていたように、大切なのは「三密」を避けること。もう忘れているかもしれないが、「三密」とは密閉・密集・密接だ。三密回避に低山の優位は疑いようがない。もはや役目を終えた当連載であるが、今回はひとつのまとめとして、初心に帰って14年ぶりに御岳山に登ってみた。上の写真は御岳登山鉄道のケーブルカー御岳山駅を出たすぐにある広場であり、たいへん眺めがよい。

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●はっ。つい白状してしまったが、ケーブルカーを使って登ったのである。しかも下りもケーブルカーを使った。前回の御岳山ハイキングでは、下りだけは歩いたのだが、今回は体力の消耗を避けるために下りも楽をしてしまった。月日は流れている。ケーブルカーが使えるというのはありがたいこと。いや、本気になれば、ケーブルカーを使わなくても歩いて登れる……と思う、たぶん、もしかすると。

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●御岳山駅から徒歩30分ほどで、御岳山山頂にある武蔵御嶽神社に到着する。今回、目的地はロックガーデンだったので、この神社に寄らず近道をしてもよかったのだが、参拝に寄り、平和を祈った。この神社には鎌倉時代の武将、畠山重忠がいることを今回初めて知った。今にも動き出しそうな像である。二俣川の戦いではこの刀で次々とゾンビを薙ぎ払ったと言われている。ウソ。

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●ここから歩いてすぐの場所に長尾平と呼ばれる開けた場所がある。眺めがよく、お弁当を食べるには最適。実はこの場所が開けているのは、災害時のヘリコプター離着陸場も兼ねているから。ゾンビ・コミックの金字塔「アイ・アム・ア・ヒーロー」(花沢健吾著)でも都市脱出の手段としてヘリコプターに焦点が当てられていた。下界からヘリで飛んだら、目指すのはここである。

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●ここが今回の目的地、ロックガーデン。苔むす岩々と小川のせせらぎが最高に心地よい。ここも東京都内なのだ。岩に近づいてみると、苔がびっしり生えている。ロックガーデンへのハイキングコースはこちらを参照。ケーブルカーを使う前提なら気楽な散策のようなものと思いきや、小雨の後ということもあり地面がぬかるんでいる場所があったり、舗装された道でもかなりの急勾配があったりと、意外と神経を使った。なお、紅葉シーズンが来ると、山とはいえ「三密」状態になる可能性が高いので、そこは留意しておきたい。

June 18, 2020

ゾンビとわたし その42:映画館で「デッド・ドント・ダイ」(ジム・ジャームッシュ監督)


●演奏会が再開に向けて動き出したように、映画館も再開している。このウィルス禍を受けて、まずは再開第1作として見るべき映画は何か……と考えたら、答えはこれしかない。ジム・ジャームッシュ監督が撮ったまさかのゾンビ映画、「デッド・ドント・ダイ」。
●もちろん、映画館は念入りな感染対策をとっている。建物の入り口では客のおでこに非接触体温計を当てて体温チェック。そして、上映室に入る前にアルコールで手を消毒する。マスク着用必須。指定席は当日のみ発売。座席は市松模様で半分のみ使用。ペアの来場者をわざわざ離す必要はないはずだが、一律に一席飛ばしで座るようになっている。運用上、そのほうがシンプルということなのか。客席はガラガラだが、平日昼だからウィルス禍以前でもこんなもの。
●アメリカの田舎町を舞台に、ビル・マーレイ演じる警察署長とアダム・ドライバー演じる巡査がゾンビ騒動に巻き込まれるというすっとぼけたコメディ。監督も役者もゾンビ映画とは思えない豪華さだが、中身はとにかくゆるい。20分くらいの内容を100分に引き伸ばしたようなテンポ感で、ストーリー展開もかなり投げやりというか、脱力系の笑いに収斂するしかないような話になっている。笑える人には笑えるのだろうし、アダム・ドライバーは「スター・ウォーズ」のカイロ・レンよりこちらのテイストのほうがずっと似合っている。ただ、コメディであったとしても、なにかストーリー展開にアイディアが欲しかった。そして公開のタイミングも幸運とはいえない。今、ワタシたちの世界は現実の災禍に向き合っている。そこで改めて思うのは、コメディやパロディが真に笑えるものになるためには、対象物へのリスペクトが必要なんじゃないかということ。ゾンビ禍が笑いと結びつくのは、それが生々しいものだから。じゃないすかね。

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March 12, 2020

ゾンビとわたし その41:潜伏期間について

●ゾンビ映画の基本的な作法として、潜伏期間の明示があると思う。たとえばブラッド・ピットが主演した映画「ワールド・ウォーZ」では、近年の流行に従って全力疾走するゾンビが描かれていたが、映画としてのスピード感を重要視するあまり、潜伏期間がわずか12秒に設定されていた。噛まれたらあっという間にゾンビ。なるほど、視覚的なインパクトは抜群だ。しかし、この設定はいただけない。潜伏期間が長いから感染が広がるのであって、12秒で人がゾンビになってしまっては、そんなものが世界的に流行するはずがないではないか。
●というのも、ゾンビになってしまってはクルマも運転できなくなるし、電車にも乗れなくなる。ましてや飛行機で外国に行くことなんてできない。もし潜伏期間が十分に長ければ、噛まれた者が無自覚なまま出張や旅行に出かけて、旅先でゾンビ化することでゾンビ禍が広がってゆく。しかし感染から12秒でゾンビになってしまっては、外国どころか、箱根の山すら越えられない。日本の国土の75%は森林である。感染は人口過疎地域で終息してしまう。つまり、潜伏期間の長さは射程の長さを意味している。
●昨日3月11日を迎え、東京の風景はいろんな点で9年前と酷似していると感じる。演奏会はほとんど中止、がらがらで人通りの少ない新宿、空っぽの商店の棚(今回は主にトイレットペーパーとマスクだが)、自粛と同調圧力、SNSで罵詈雑言を浴びる学者・専門家たち。そして、人は聞きたい話しか聞かない。自分も含めて。

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January 29, 2020

ゾンビとわたし その40:「ショパンゾンビ・コンテスタント」(町屋良平著/新潮社)

●書名からして、自分が読まずしてだれが読むのかという一冊、「ショパンゾンビ・コンテスタント」(町屋良平著/新潮社)。だって、ショパンでゾンビでなんすよ! 同じ著者の芥川賞受賞作「1R1分34秒」を以前に読んで、とても好印象を持っていたのでなおさら。
●主人公は音大のピアノ科に入学したものの、すぐに辞めてしまい、ファミレスでバイトをしながら小説を書く若い男。しかし小説も書きあぐね、友人の彼女に片思いをしたまま、煮え切らない日々を送る。時間はたっぷりとあるが、まだ何者でもない若者の不透明な日常が切り取られている。で、登場人物がYouTubeでなんども2015年のショパン・コンクールを見ているのだが(ケイト・リュウやエリック・ルーを見てる)、音楽面の描写に関しては「蜜蜂と遠雷」よりもよほど説得力があり、情景が伝わってくる。しかし焦点はそこに当たっていない。
●で、大事なことを言っておくと、ゾンビは出てこない(えっ!)。出てきません。比喩的な表現としてはともかく。なので老婆心から書いておくと、書名からゾンビ版「蜜蜂と遠雷」みたいなものを期待してはいけない。まさにそこにワタシの勘違いがあったわけで、書名から想像していたのは、たとえば、こんな話だ。
●ワルシャワの聖十字架教会をひそかにポーランドのマッドサイエンティストが訪れる。ここに眠るショパンの心臓からDNAを採取し、ショパンその人のクローンを生み出そうとする。ショパンの音楽を正しく演奏するにはショパンの肉体が必要。オーセンティックな演奏解釈について急進的な思想を持つマッドサイエンティストは、現代にショパンをよみがえらせようとしていたのだ。だが、心臓から肉体を再構築されたショパンはいったんは生命を宿したように見えたものの、再構築時の変成によりゾンビとなって生まれ変わっていた。ガブッ! 噛みつくショパンゾンビ。次々と人を襲いながらショパンゾンビが向かったのはワルシャワ・フィルハーモニー。今まさに開催中のショパン・コンクール本選にショパンゾンビが現われた。あっ、ショパンだ。舞台上で驚愕するコンテスタント。「握手してください」と手を差し出したところ、ショパンゾンビは容赦なくガブリ。そして生前の記憶を留めるショパンゾンビは鍵盤に向かい、やさしいタッチで演奏を始める。これが本当のショパンの音楽だ。一同、演奏に聴きほれるが、ショパンゾンビは納得しない。なんだこのキンキンした音を出す楽器は? エラールはどこだ。プレイエルはないのか。怒り心頭のショパンゾンビは客席に向かう。ガブッ! ガブッ! もはや入れ食い状態、阿鼻叫喚のフィルハーモニー。そして、ワルシャワ発のゾンビ禍は世界へ……。
●と、そんな妄想を爆発させていた自分はどう考えてもまちがっているのであって、このような純度の高い青春小説に対して、まったく申しわけないことである。

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July 31, 2019

ゾンビとわたし その39:山、そして「アイ・アム・ア・ヒーロー」最終巻

●先日、アメリカのコーネル大学の研究で、全米でゾンビ禍が発生した場合、ゾンビがそのように広がるかをシミュレーションしたところ、最適な避難場所は北ロッキー山脈だという結論に達したという記事を読んだ(もしもゾンビが大量発生したらどうする?疫学的に正しい安全な避難場所を割り出した研究)。ニューヨークでゾンビが発生した場合、ヤツらが田舎に到達するまでに数週間、北部の山間部なら数か月の時間的猶予があるという。人口密度の高い大都市部ではあっという間に伝染するが、案外と田舎への到達は時間がかかる。ゾンビ禍においては、空気感染や他の動物を媒介とした感染が起きない。人と人との直接的な接触があって初めて感染が起きる。だから感染速度は人口密度に著しく依存するわけだ。当連載では早くから、「人口密度が非常に低く、なおかつ自然環境が過酷ではない」という理由で、低山が避難場所に最適ではないかと指摘してきたが、シミュレーションでもやはり似たような結論に達したことになる。もちろん、山がいいと言っても、いざというときにそこまでどうやって移動するのかという難問は残るわけだが。
●すでに完結したコミック「アイ・アム・ア・ヒーロー」(花沢健吾著著)では、終盤でゾンビ(このストーリーではZQNと呼ばれる)たちが次の形態へと向かって変貌していく様子が描かれていた。で、最後はどうなったのか。主人公である鈴木英雄は東京都心でひとり生き残る。ほかに重要なサブストーリーがあるのだが、都心部においては人もゾンビもいない孤独な環境で、主人公が生存している。その光景は映画「アイ・アム・レジェンド」で描かれたニューヨークにそっくり。で、そもそも題名が示す通り「アイ・アム・ア・ヒーロー」は「アイ・アム・レジェンド」へのオマージュだったことに気づく。この最終シーンは連載開始時から考えてあったのかも。ただし、これは単にウィル・スミス主演の映画に捧げたものではないはず。おそらく、その原作であるリチャード・マシスン著「アイ・アム・レジェンド」(旧題「地球最後の男」)へのオマージュと考えるべきなんだと思う。なぜならマシスンの小説はあらゆる「ゾンビ」もののルーツといえるので。この小説では災厄はゾンビではなく吸血鬼によってもたらされるのだが、噛みつくことで人から人へと吸血鬼性が感染していくのは同じ。つまり、ゾンビのご先祖様は吸血鬼ということになる。

>> 不定期連載「ゾンビと私
February 26, 2019

ゾンビとわたし その38:村上春樹の「ゾンビ」

●話題のNHKドラマ「ゾンビが来たから人生見つめ直した件」は、最初の一回を見始めてすぐに、どうもこれは問題意識の方向性が違うゾンビであるなと気づいて、以来、見ていない。アポカリプス的なゾンビ観と、人間ドラマを描く媒介としてのゾンビ観の違いとでもいうべきか。
●で、たまたまネットで調べ物をしていて今頃知ったのだが、村上春樹に「ゾンビ」という短篇があったんである。「TVピープル」(文春文庫)に収載。著者が欧州に長期滞在中だった1990年の刊行ということで、今から20年ほど前に書かれた先駆的作品。といっても、文体の違いを別とすれば、テイストも長さも星新一のショートショートみたいな感じで、肩の力の抜けた小噺といったところ。気が利いている。パンデミックの恐怖よりも、人を食べるという性質をもってゾンビとしているあたりに時代が現われていて、ゾンビ考現学的な視点からも興味深い。
●で、この「ゾンビ」って書き下ろしなんすよ。なぜかといえば、せっかく書いたのに雑誌の編集者から掲載を断られたため、いきなり本で発表することになったのだとか。村上春樹の原稿をボツにする編集者がいた時代に驚くべきなのか、それともたとえ村上春樹でもダメだってくらいゾンビへの関心が薄かったのか。

>> 不定期連載「ゾンビと私
September 5, 2018

ゾンビとわたし その37:松本アルプス公園~城山公園~まつもと市民芸術館

松本アルプス公園
●先日、セイジ・オザワ松本フェスティバルのために松本市に足を運んだが、音楽祭以外のもうひとつの重要ミッションがこちら。標高約800メートルにある広大な松本アルプス公園を訪れた。かねてより「ゾンビと私」にて書いてきたように、街がゾンビで埋め尽くされた場合、なによりもまず人口密度の薄い土地に逃げなければならない。そのため、東京近郊の低山をリサーチしてきたが、なにしろ東京は関東平野。都市が巨大で、山が遠い。その点、地方都市ではより有利な状況を望める。以前、松本に行った際には「乗鞍高原ハイキング」を敢行したが、いささか市街地から遠すぎたのではないかという反省があった。なにしろゾンビ禍が発生すると、すぐに車が使えなくなることは先行事例から明らか。徒歩で到達できる場所を考えるべきである。そこでグーグルマップで松本市を眺めて、ほどよい距離と高度を持つアルプス公園に目を付けた次第だ。
松本アルプス公園
●まずなによりもこの公演は見晴らしがよい。写真のように街を一望できる。遠景に山があって実に美しいではないか。下界で人々が次々と噛みつかれていることを忘れてしまいそうなほど、心安らぐ見事な眺望である。
松本アルプス公園
●そして71ヘクタールという都市公園とは思えない広大さもよい。広ければ広いほど、人口密度は薄まる。公園内でもいっそう小高い「花の丘」で一息。そういえば、週末であるにもかかわらず、ここに来るまで数えるほどの人しか見かけていない。お天気がもうひとつということもあるかもしれないが、都内ではまず考えられないこと。のびのびと過ごせる。
松本アルプス公園
●そして、公園とは言いつつ、周辺部にはこのように低山ハイキングの気分を味わえるような散策コースも用意されている。一見、見通しが悪く安全性に欠けるように見えるが、このような道では必ず足音が聞こえる。足音の様子から、人間とヤツらを見分けることもできるのではないか。
城山公園
●さて、松本アルプス公園を抜けて、続いてもうひとつの都市公園である城山公園へと下ることにする。標識から確認できるように勾配は10%。大前提として、なぜ高い場所へ逃げるかといえば、ヤツらは意図的に山を登らないはずという仮定がある。獲物を追いかける場合は別として、確たる意思を持たずにフラフラと移動する以上、自然に坂道は上るよりも下るであろうし、特に階段や急勾配を連続して上る確率はかなり低いと見ている。問題は10%の勾配が十分に急と言えるかどうか。人間が歩いてみると、かなり急である。もしこれが十分に急であるとすれば、ぐっと安全度は高まる。

●そして城山公園へと達したときに、恐るべき看板を見かけることになる。まさか、こんな市街地に近い場所にクマが出没するとは! 市の公園緑地課の看板は熊鈴の装備を勧めている。だが、熊鈴を装備すれば、こんどはゾンビをおびき寄せることになる。クマかゾンビか。大山倍達になるか、ミラ・ジョヴォヴィッチになるか。低山という逃げ場の有効性が根本から脅かされているのを感じながら、まつもと市民芸術館まで歩いたが結論は出ていない。

>> 不定期終末連載「ゾンビと私

August 23, 2018

ゾンビとわたし その37:映画「カメラを止めるな!」(上田慎一郎監督)

●ようやく観た、映画「カメラを止めるな!」。低予算映画ながら口コミで評判を呼び、現在大ヒット中。なにせ平日の昼から連日全席完売という大人気ぶり。ONE CUT OF THE DEAD という英題が示すようにゾンビ映画を謳っているわけだが、よもやゾンビ映画を満席の映画館で見ることになろうとは!上映前の客席にみんなのワクワク感が充満しているのが肌で感じられるという近年では稀有な体験。
●で、これがどういう映画であるかというのはなかなか語りづらい。予告編も見ないほうが吉。これから観る人の楽しみを損なわない範囲で簡潔に言えば、細部までよく練りあげられた「感じのいい映画」。最初の30分ほどは、こんなはずではないのだがと思いながらカメラ酔いに耐えていたが(画面が揺れるタイプなんすよ)、途中から合点が行き、最後は溜飲が下がった。登場人物の造形も秀逸。あ、こんな人、いるいるのオンパレードだ。役者の演技もすばらしい。核心となるテーマは愛(多くのゾンビ映画と同じように)。傑作。

>> 不定期終末連載「ゾンビと私