文=野口方子(ドイツ文学)
text by Yasuko NOGUCHI
ゼンパーオーパーことドレスデン国立歌劇場の来日公演を観た。
まずは『ばらの騎士』(2007年11月23日・NHKホール)。待望のマルシャリン(元帥夫人)役、アンゲラ・デノーケがインフルエンザで降板、という残念なニュースがあったものの、代わりに歌ったアンネ・シュヴァネヴィルムスは、とても代役とは思えない、声も姿も美しいマルシャリンであった。ただ、筆者の個人的なイメージとしては、マルシャリン役には少々まだ若いかな、という感じで、この歌手には是非『アラベラ』のタイトル・ロールを歌ってほしいと思う。今回の『ばらの騎士』第一幕のモノローグも良かったが、『アラベラ』第一幕のモノローグを歌ったら絶品なのではなかろうか。
クルト・リドル演ずるオックスは、何をしてもどこか品があり、「こんな男爵なら結婚してもいい」と思わせるような格好良さ(!)で、ある意味「あくまで貴族である」オックスを体現していたと言えよう。それだけに、特に第一幕はもう少し破天荒な天真爛漫さがあっても良かったかもしれない。ただし、第二幕以降は(品性は保ったままで)素晴らしく、「これぞオックス!」という出来で、あのチャーミングな「オックスのワルツ」がぴったりであった。
R.シュトラウスのオペラは、『ばらの騎士』に限らずとかく演奏がバラバラになりがちの難曲ぞろいだが、さまざまな音楽的要素を一つの楽曲としての流れに見事にまとめていた指揮者、ファビオ・ルイージの手腕には脱帽した。殊に第三幕に入ってからは、シュトラウスがどのように音楽を書いたのかが、手に取るようによく判る演奏で、改めて感じ入ることも少なくなく、貴重な経験となった。ルイージがオーケストラから紡ぎだす音響は、(筆者自身は好みなのだが)少し硬質な響きで、聴きようによっては交響詩的な響きでもあり、それゆえにさまざまなシュトラウスの仕掛けを聴き取ることもできた。これに、ウィーンが舞台である『ばらの騎士』の言葉に表し難いニュアンスが全体に加われば、完璧だったろう。
ウーヴェ=エリック・ラウフェンベルクの演出は、人の動かし方など、台本と音楽を正しく理解した上でなされていたのがよく判るものだった。だが、ことオペラの舞台、ということになると、音楽(それも饒舌なシュトラウスの音楽)が主体になるため、視覚的にも饒舌な今回の演出だと、少々過剰との感が拭い切れず残念だ。このことには舞台俳優の出身ということも関係しているかと思うが、今後は「どれだけ音楽に任せるか」という、いわば「引き算の美学」に期待したい。このあたりは、実はホーフマンスタールがオペラの台本を書く上で、試行錯誤を繰り返したところでもあり、戯曲とは異なるオペラというジャンルの本質にも関わってくる、難しくも非常にやり甲斐のある部分なのではないだろうか。
そしてその「引き算の美学」を、究極まで追及したのが、ペーター・ムスバッハが演出を手掛けた『サロメ』であった(11月24日・東京文化会館)。
舞台は、プールサイドを思わせる殺風景な装置の上で繰り広げられる。何故プールサイドなのか、との問いには、恐らくフロイト的な観点からの「水」を表現したかったのでは、との答えが浮かび上がってくる。ヨカナーンがプールサイドに座っていることからはエロティシズムを、事あるごとにサロメが膝を抱えてうずくまってしまうことからは、この「水」が羊水でもあり、さらにそこから母胎回帰をも連想され得るのである。
この作品においてはエロティシズムは言うまでもないことだが、今回の演出で浮き彫りにされたのは、サロメとヘロディアスの母娘関係である。羊水への母胎回帰をほのめかしながらも、この母娘は、まるでヘロデとヨカナーンをめぐってライバル関係にあるかのようだ。聖書の該当箇所を読む限りでは、サロメは母親の言うなりになっている少女、という印象だが、オスカー・ワイルドのサロメは、「自分の意思で」ヨカナーンの首を要求する。自分の意思が感じられない聖書の時代から、ワイルドの時代に自らを主張する存在となり、さらに一歩踏み込んで、この21世紀の現代にあっては、母親と男をめぐって争う女となったわけだ。この変容の過程も、水の流れのイメージと重なり合うのではないだろうか(例えば、セイレーンに代表される魔性の女など)。
『サロメ』の中でも特に有名な「七つのヴェールの踊り」だが、この場面にムスバッハの解釈が収斂され、妖しいまでのエロティシズムが表現されている。驚いたことに、ここでサロメはストリップをしない。それどころか、曲の初めではヘロディアスと踊っていたヘロデの服を一枚ずつ脱がせていくのである。これが、母親への挑発行為でなくて何であろうか。しかし、ヘロディアスも負けてはいない。サロメが、ヘロデから剥いだネクタイでヨカナーンの片腕をプールサイドの手すりに拘束すると、ヘロディアスは自分の黒いストッキングを音楽に合わせて脱ぎ、ヨカナーンに猿轡を咬ませる。それに気づいているのかいないのか、ヘロデはサロメへの欲望を満足させて子どものように喜んで見えるところが強烈な皮肉になっていた。
そして、そのご機嫌なヘロデにサロメがヨカナーンの首を要求する。驚きおびえるヘロデに詰め寄るサロメが、「ヨカナーンの首が欲しいのです」と繰り返すうちに、どんどん狂気じみてゆき、さらにそれが願望を満たして狂喜に変わる様には、哀れすら漂う。微妙な人間心理の綾を、一切の無駄を削ぎ落とした舞台上で、ここまで表現するムスバッハの解釈は、もはや白眉としか言いようがない。
そして、このムスバッハの解釈を見事に表し、聴衆に伝えてくれたのが歌手達である。主役の四人は誰も素晴らしかったが、やはり特筆すべきはタイトル・ロールを歌ったカミッラ・ニールントだろう。ニールントは、6月に新国立劇場で『ばらの騎士』のマルシャリンを歌い絶賛され、また今回のゼンパーオーパーでも『タンホイザー』のエリーザベトを歌っている(11月17日)。エリーザベトはマルシャリンのイメージと重なってしまうところもあったのだが、この『サロメ』においては、ユダヤの王女であり、未だ少女であるサロメ以外の何ものでもなく、そこには他のいずれのイメージも存在しない。少女の可憐さが、やがてヨカナーンの首を要求するうち凄みすら漂わせてゆく、その変容ぶりには眼を瞠った。ヨカナーンを想うあまりに狂気を帯びてしまう哀愁は、この人でなければ表現できないかも知れない。それほど、すごい歌手だ。
『サロメ』の音楽には、ルイージの交響詩的で硬質な響きがまさにぴったりで、実はこの曲は大変に美しいものなのだ、ということを実感させてくれる秀逸な演奏だった。上記の「七つのヴェールの踊り」では、演出にも驚かされたが、これほど美しい演奏を聴いたのも初めてだ。これほどの演奏を聴いてしまうと、間違っているということではないのだが、今まで聴いた演奏は、かなりセンセーショナルで威圧的なものばかりだったと思ってしまうほどだ。そして、この美しい演奏が、ムスバッハの演出と相俟って、素晴らしい上演となっていたのである。『サロメ』という作品の上演に限らず、オペラ作品の上演で、ここまで感動的なものに出逢えることは、そうないのではないだろうか。一生忘れられない、稀有な夜となった。
(2007/12/07)
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