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>>ドレスデン国立歌劇場『ばらの騎士』『サロメ』上演批評     >>新国立劇場『ばらの騎士』上演批評
文=野口方子(ドイツ文学)
text by Yasuko NOGUCHI
 
 

 今年は、新国立劇場や引越公演をあわせて、3プロダクションものR.シュトラウス『ばらの騎士』上演が予定されている。『ばらの騎士』といえば、その中で一、二を争う人気を誇る名場面が、第三幕終盤のオクタヴィアンとゾフィー、そして元帥夫人(マルシャリン)の三重唱だろう。さんざんドタバタ劇が演じられた後に、このえも言われぬ美しい三重唱が始まると、ついのめり込んではホロリときてしまう。しかし私は、かねてからここである種の違和感を抱いてしまうのだ。それは何故だろうか? 「『ばらの騎士』イヤー」とも言えるこの年に、あらためてこう自問してみると、この三重唱があまりに完璧すぎるからではないかと思い当たる。マルシャリンがいかに若い二人とくらべて齢を重ねているからといって、こんなにも潔く身を引けるものなのだろうか? 彼女の諦念は、この音楽と同じくハーモニーを奏でるような、そんなに美しいものなのであろうか?
 まさにここでは、オクタヴィアン、マルシャリン、ゾフィーの歌声がまことに美しく響きあい、そこから紡ぎ出された音の糸が、あたかも一枚の美しい布を織りなしてゆくかのようだ。しかし、この織物には、本来不釣合いなはずの糸が一本含まれており、それこそがマルシャリンだ。そして、この不釣合いからくる違和感すら、美しさに変化させてしまうのがシュトラウスの音楽なのだ、と解釈していた。これはある意味では真実であるが、この作品をつぶさに見てゆくと、実はもっと深い意味が隠されていることに気づくのである。

 
「時よ止まれ、お前はいかにも美しい」 *1
 第三幕でのマルシャリンの諦念を考えるとき、忘れてはならないのが、第一幕の終わりで彼女が口にする、含蓄に富んだ言葉の数々だ。

「何も留めることは許されない、何もしまっておくことはできない。すべては指の間から流れ落ち、手を延ばしてつかんでも崩れてしまう。すべては、霞や夢のように溶けてなくなってしまう」
「カンカン、今日か明日かは分からないけれど、あなたは行ってしまう。私を捨てて、私より、もっと綺麗で若い人のところへ」

マルシャリンとオクタヴィアンの、幸せに満ちた後朝(きぬぎぬ)の場面で始まる第一幕においてすら、彼女はこのように、すでに二人の関係の終わりを予見し、「時の移ろい」に対する戸惑いと哀しみを感じている。冒頭で、その時の幸せに酔いしれて「このままずっと夜だといいのに!」と、時間を止めたがっているオクタヴィアンとは対照的である。「いま」という時が永遠に続くかのように錯覚するのは、若さにのみ許された特権であるとでも言わんばかりだ。
 また、彼女は娘時代を思い起こし、

「レジと呼ばれていた女の子が、いつの間にかこんなお婆さんになってしまうなんて……『ほらご覧、あそこを行く老公爵夫人が、あのレジだよ』と言われるのだわ」

と現在の自分の変わりようを嘆くわけだが、そのような彼女が「愚かな振舞いばかりしている〔オクタヴィアン自身のセリフ〕」ような若いオクタヴィアンを愛するのは、(意識的にせよ無意識的にせよ)少しでも自分の若さを繋ぎとめておきたいからではないのか。となると、いわば女性として絶頂にあるとも思われる冒頭の場面も、「現在のマルシャリン」ではなく「娘のレジという幻影」がオクタヴィアンと繰り広げているのだということになり、それはその時点で、すでに虚構だということになる。ゲーテの昔から、ある瞬間に向かって「止まれ、お前はいかにも美しい」と言えば、たちまち崩壊を招くものだということを、まさに暗示しているようにも見えるのだ。 *2
 第一幕で「(神様は、時の流れを)何故こんなにはっきりと見せ付けなければならないの」と悲しんでいたマルシャリンが、くだんの第三幕終盤の三重唱において、ゾフィーとオクタヴィアンが今まさに結ばれようとしているのを目の当たりにし、「もうずっと自分に言い聞かせていたはずではなくて? とにかく女であれば誰にでも訪れることなのだと」と呟いていることの意味は、言うまでもなく、単に不倫相手をあきらめるということではない。若いオクタヴィアンを諦めるということは、取りも直さず、自分の若さ、そして「レジと呼ばれていた頃の私」にいつまでもしがみつくのを諦めなくてはならない、ということなのだ。ホーフマンスタールの台本に対して、シュトラウスの音楽は、そのようなマルシャリンの「老い」すら甘く穏やかで美しい音の中に織り込んでしまう。「女であれば誰でも避けられない」“老い”の足音とどのように向き合うのか、という憂鬱なテーマも、軽妙な音楽で仮面をつけることで、上質な茶番(コメディ)、ウィーン風の仮面劇にし、美しい永遠のテーマに仕立て上げてしまうその手腕は、シュトラウス音楽の本質である。

 
音楽の鳴り響く空間、そして現在に含まれる過去
 ところで、この稿のはじめで、「不釣合いなマルシャリン」と書いたが、それは若い二人に比して年老いているから不釣合いだ、と言っているわけではない理由をここで述べておきたい。
 ホーフマンスタールは、1910年7月12日付けでシュトラウスに宛てた手紙のなかで、マルシャリンがオックスやカンカンの間にあって常に優位を保つ存在であり、一方のゾフィーはこれらの主要人物に比べれば、はっきり一段下の存在だ、と書いている。また、『ばらの騎士』で繰り広げられる華やかな恋の戯れ全体を、マルシャリンの視点から見ることが大切だとも言っている。さらに、1911年に書かれた『ばらの騎士』への後書きでは、次のように述べている。

「オクタヴィアンはゾフィーを引き寄せる ―― だが彼は、真に、そして永遠に彼女 を自分のもとへと引き寄せるのだろうか? このことは、あるいは疑問のまま残るかもしれない。登場人物の組み合わせは、他の組み合わせに対置され、結ばれたものは分かたれ、分かれたものは結ばれる。つまり、彼らはみな互いに関連しあい、一番大切なことは、人物相互の『関係』に含まれているということだ。それは瞬間的かつ永久的なものであり、ここにこそ音楽の鳴り響く空間が成就する」

 つまり、マルシャリンという人物そのものが不釣合いというよりは、貴族のオクタヴィアンと資産はあるが市民でしかないゾフィーが結ばれ、それをマルシャリンが今や一段上から静かに見つめている、その「関係」が本来の身分(そして内面性)からすると、齟齬を来しているとしか言いようがなく、それにもかかわらず、この三重唱の音楽は美しすぎる。私はそのことに対して、違和感を覚えるのである。だが、これが人物相互の関係の上でも、音楽の上でも、一点の曇りもない大団円の調和であったとしたら、はたしてこの作品は、レパートリーとして今にまで残っただろうか? この違和感の中にこそ、「現在に含まれた過去〔同『ばらの騎士』への後書きより〕」、つまり、現代の世相にまで通用するような心の綾があり、それこそがホーフマンスタールによって準備され、シュトラウスによって完成された魔法だったのである。
 シュトラウスの音楽によって永遠の美を得たマルシャリンが、ここでまさに「永遠にして女性的なるもの(*3)」として私たちを重たい現実から引き上げ、軽やかに微笑む音の世界に解き放ってくれるとまで言ってしまうと、さすがに言いすぎであろうか。ここでホーフマンスタールとシュトラウスという、二人の巨匠が贈ってくれた織物が、どのような光沢を放っているのか。その色合いや、肌ざわりが紡ぎ手によって微妙に異なるのは言うまでもない。それこそが芸術の醍醐味であるし、今年は、三種類の紡ぎ手から、とりどりの織物が受け取れるチャンスがあるのだ。受け取る側の、性別、年齢、そして恋の経験によっても、その織物の色合いがいろいろと変わる可能性もある。私にとっても、楽しみな一年だ。 (2007/06/06)


(*1)ゲーテの『ファウスト』において、ファウストが言う言葉。

(*2)ホーフマンスタールは1912年3月8日付けのシュトラウス宛書簡のなかで、
 「私たちの素材 ――『ばらの騎士』、『アリアドネ』、『影のない女』―― これら全てにおいて問題となっているのは、精神の純化、そしてゲーテ的雰囲気であり、そのことをあなたが深く理解してくださったことが、私を限りなく喜ばせました」
と書いている。このことからしても、ゲーテと結びつけて考えることは決して「無理なこじつけ」というわけではない。むしろホーフマンスタールやシュトラウスのような、真の教養人がゲーテの影響をまったく受けずにいる、という考え方のほうが、よほど無理がある。

(*3)ゲーテ『ファウスト』第二部結末の一節。
「すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、
ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なるもの、
われらを牽きて昇らしむ」(高橋義孝訳)

 
著者プロフィール
武蔵大学および同大学院人文科学研究科ドイツ語ドイツ文学専攻修士課程を経て、慶應義塾大学大学院文学研究科独文学専攻博士課程修了(単位取得)。現在、早稲田大学演劇博物館グローバルCOEオペラ研究会会員。ピアノを海藤美和、岡田みどり氏に、ヴィオラを李善銘、中山良夫氏に師事。卒業論文のテーマは『ナクソス島のアリアドネ』。また、「和風の魔圏−南ドイツ新聞《影のない女》評−」( Richard Strauss 93 日本リヒャルト・シュトラウス協会年誌 所収)の翻訳(共訳)および「昼のアラベッラ・夜のアラベッラ ―― アラベッラとズデンカの相互変容」(1998年新国立劇場・二期会オペラ振興会公演プログラム『アラベッラ』所収)等。

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