2015年4月27日
ブルックナー強化期間
●ここ半年くらい意識的にブルックナーを聴いていて、先週はミヒャエル・ザンデルリング指揮N響とインキネン指揮日フィルへ。自分内テーマとしては、深くて重厚なサウンドが生み出す宗教的恍惚感、っていうのとは無縁の「楽しいブルックナー」を探す、みたいなシリーズ。途中で参照点として本家本元みたいなティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団をはさみながら、いろんなオケのブルックナーに足を運んでいる。決して休憩時の「ブルックナー行列」の長さを観察するためではなくて。
●で、22日、ミヒャエル・ザンデルリング指揮N響(サントリーホール)で、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。ミヒャエルを聴くのは初めて。長身。漠然とその姓から想像していたよりも、明るくて伸びやか、パワフルだけど重くはないブルックナー。細部にデザインを施してコントラストを作りながらも、全体の自然な流れが失われていないのは吉。とはいえ、初めての客演であり、まだこの先があるはずという感も。前半はLFJで以前ルネ・マルタンが押していたベルトラン・シャマユが、N響定期に帰ってきて、シューマンのピアノ協奏曲。好感。
●24日はインキネン指揮日フィル(サントリーホール)。ラザレフ退任後の首席指揮者にインキネンが就任することになって、にわかに注目度が高まる。将軍からイケメンに。ヒューイットの独奏によるブラームスのピアノ協奏曲第1番で始まって、後半にブルックナーの交響曲第7番。インキネンへの印象はこれまでに何度か聴いたものと変わらない。先日の首席指揮者就任記者会見でもこの日のプレトークでも、インキネンは「これまでシベリウスなどで日フィルの透明感のある美しい音色に感銘を受けてきたが、これからはワーグナー、ブルックナー、ブラームスなどドイツ音楽での重厚で深みのある音を追求したい」的なことを語っていた。インキネンの棒の振り方も(以前ワーグナーだったかでも感じたけど)しばしばティーレマンが憑依したかのよう。一方で、透明感のあるサウンドというのは当のインキネンが引き出してきたものという気もする。ラザレフや山田和樹が指揮するときと比べると、明らかにサウンドは違うわけだし。この日のブラームスもブルックナーも、重厚というよりは清爽。熱気は伝わってきたが、賛否は分かれそう。弦の対向配置も。
2015年4月23日
LFJ新潟とLFJ金沢、あれこれ
●今年のラ・フォル・ジュルネ新潟は、東京の翌週に開催される。昨年までは新潟のほうが一週早く開かれていたと思うのだが、今回は5月8日から10日まで。昨年に続いて、今年も足を運ぶことになった。9日と10日は新潟駅と会場を結ぶ無料シャトルバスが走ることになったそうなので、県外からの参加者にとっては心強いかも。30分毎というのが微妙だが、帰路に使う分には問題ないか。
●LFJ新潟は第1回の「ベートー弁当」以来、無理やりなダジャレでオリジナル弁当を開発してくれていて実にたのもしいのだが、今回は音楽祭のテーマが「恋するパシオン」。鯉弁当ってのも難しいかな~と思っていたら、結局「PASSIONS obento(パシオン弁当) 恋するシェフと農家たち」というタイトルで、「情熱あふれる新潟の若手イケメン農家さんが作った季節の農産物をたっぷり入れたイタリアンランチボックス」という意外な路線で押してきた。イケメン農家さん! てか、オッサンはどう反応すればいいの?
●一方、北陸新幹線でもりあがっているLFJ金沢、こちらのテーマは「パシオン・バロック~バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ」なので、はっきりとバロックの音楽祭になっている。本公演は5月3日から5日で、東京とは一日違い。今回の金沢はかなり独自色があって、ベルリン・フィル首席クラリネット奏者のヴェンツェル・フックスや、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のメンバーによる室内アンサンブルのムジカ・レアーレらが参加している。地元紙・北國新聞の本日朝刊に注目公演について拙稿を寄せているので、地元の方はご覧いただけると幸い。
2015年4月21日
日本フィル次期首席指揮者ピエタリ・インキネン就任記者会見
●日本フィル次期首席指揮者にピエタリ・インキネンが就任することになった。2016年9月から、任期は3年間。20日、ANAインターコンチネンタルホテル東京で記者会見が開かれた。今気づいたけど、上の写真、ポスターとご本人が同じようなポーズと衣装で「本物はだれだっ!」みたいになっている。
●すでに首席客演指揮者として何度も日フィルを指揮しているインキネンが首席指揮者になるという納得の人選、さらに現在の首席指揮者であるラザレフも同時に桂冠指揮者兼芸術顧問となり日フィルとの縁は続くということで、楽団としての一貫した継続性の感じられる人事となった。フットボール的にいえばセンターフォワードとサイドアタッカーのポジション・チェンジがあったものの、インキネン、ラザレフ、山田和樹の3トップは変わらずといったところか。首席指揮者としてインキネンは年に3回の来日。まずは就任披露演奏会として、2016年9月にサントリーホールで「ワーグナー・ガラ・コンサート」が開かれる。テノールにサイモン・オニール他。同コンビによる「ワルキューレ」第1幕演奏会形式の興奮を思い出す。
●「日本フィルの首席指揮者に就任することになり本当に光栄に思う。これまで培ってきた日本フィルとのすばらしい関係をさらに深められることを楽しみにしている。すでにシベリウスをたくさん演奏してきたが、日本フィルとの第2章ではドイツ系のレパートリー、ブラームス、ブルックナー、シュトラウス、ワーグナー、そして古典派のレパートリーをとりあげて、これまでの透明感のあるサウンドに加えて、重厚さ、深みのある響き、ヴィルトゥオジティを求めていきたい」(インキネン)。
●まだ「インキネン・アカデミー」として、才能のある若手奏者を探し出し指導するプログラムを作りたいというアイディアも披露された。ヴァイオリニスト出身のインキネンは「自分は若い頃から奏者として恵まれた環境にあったので、そのような環境を日本の若い奏者あるいは指揮者になるかもしれない人に与えたいと思っている。すばらしい指揮者は演奏家から生まれると考えている。演奏家が指揮をしたり、指揮者がいくつもの楽器を演奏することはよい経験になる」と語っていた。
2015年4月20日
フェドセーエフ指揮N響のロシア・プロ、メッツマッハー指揮新日フィルのヴァレーズ&シュトラウス
●17日はNHKホールでウラディーミル・フェドセーエフ指揮N響へ。ラフマニノフのヴォカリーズとピアノ協奏曲第2番(アンナ・ヴィニツカヤ)、リムスキー・コルサコフの交響組曲「シェエラザード」というロシア・プロ。体調不良が伝えられていたフェドセーエフだが、そんな様子はまったく見せず。深く濃密なサウンド、融通無碍の節回しを堪能。ヴィニツカヤは初めて生で聴くことができた。オーケストラの大音量に埋もれた面もあったとは思うが、この環境でなければ相当に雄弁なソロだったはず。アンコールにプロコフィエフのピアノ・ソナタ第2番の第2楽章という意外な選曲。長さが短いので向いているといえば向いているけど、アンコールにスケルツォ楽章とは。後半の「シェエラザード」は管楽器陣のソロの巧みさが印象的だった。極彩色というよりは、渋いセピアトーンで描かれた絵巻物。
●18日はすみだトリフォニーホールでインゴ・メッツマッハー指揮新日フィル。ヴァレーズ&R・シュトラウスという垂涎プロ。前半にR・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」&ヴァレーズの「アメリカ」、後半にヴァレーズの「アルカナ」(日本初演)&R・シュトラウスの交響詩「死と変容」という配置もおもしろい。曲の性格的にはたすき掛けで「ティル」と「アルカナ」、「アメリカ」と「死と変容」がセットになっているのかなと感じる。「アルカナ」(1927)が日本初演というのは驚き。
●ヴァレーズの2作、並べて聴いてみると「アルカナ」のほうがずっと楽しい。ずっと昔、CDでヴァレーズを聴いていたときに胸を打たれたのは、たぶん嵐のような音圧のなかになにかを超克しようとする強靭な精神とか峻厳さとかを読みとっていたからだと思うんだけど、今そういう要素に魅了されることはほぼなくなってしまったので(加齢による精神の衰えにちがいない)、「アメリカ」は少ししんどい。でもサイレンはいい。最後にサイレンの余韻が残るなんて。カッコよくて、レトロな未来。そしてどちらの作品もストラヴィンスキーの、とりわけ「春の祭典」が与えた影響力の甚大さを痛々しいほどに感じさせる。キッチュさを洗練として自分内で容易に消化できるのが「アルカナ」のほう。その意味でも「アルカナ」と「ティル」がセットで、「アメリカ」と「死と変容」がセット。ヴァレーズに比べると、シュトラウスのほうはかなり控えめというか、絢爛とまではいかなかったが……。
●新日フィルのコンダクター・イン・レジデンスを務めていたメッツマッハーだが、これで2年契約を終え、任期満了。毎回瞠目すべきプログラムで自分の視野に入る範囲では話題沸騰だったにもかかわらず、この日は空席がとても多かった。SNSなどで伝わってくる好評ぶりと現実の人気に大きな乖離があるというケースはままあると承知してはいるんだけど、それにしても。
2015年4月17日
「ピアノ音楽の巨匠たち」(ハロルド・C・ショーンバーグ著、後藤泰子訳/シンコーミュージック)
●この本は時間をかけて読み進めたいので、読みはじめたところで先に紹介。「ピアノ音楽の巨匠たち」(ハロルド・C・ショーンバーグ著、後藤泰子訳/シンコーミュージック)。ニューヨークタイムズの音楽評論家として活躍したショーンバーグの名著が、新しい翻訳でよみがえった。というか、正確には増補改訂版がようやく翻訳されたというべきか。原著は1963年で、かつて芸術現代社から邦訳が出ていたが、本書は87年原著刊行の増補改訂版を新たに翻訳したもの。訳はこなれていて、とても読みやすいのでご安心を。全544ページ、ずしりと重い。
●この本の狙いはまさしく書名通り、ピアノ演奏の歴史を一望しようというもので、ほぼ有史以来のピアノ演奏、つまりモーツァルトとクレメンティからスタートして現代の巨匠たち(ポリーニとかブレンデルとか、アシュケナージやペライアまで)をつなぎ目なくひとつの歴史の流れとしてとらえようとしているのが特徴。そう、実際に歴史はそんなふうにつながっているはずなんだし。なぜかワタシらはモーツァルトらのピアニスト兼大作曲家の時代と、現代の名手たちとの時代が、地続きであることを忘れがちだ。
●となれば、読む前に興味がわくのは(大いに職業的関心もあって)、「どうやって書くのか」という点。このアイディアで書くなら、3種類のピアニストをあつかうことになる。(1)ひとつはモーツァルトやベートーヴェンのような、だれも実際にはその演奏を聴いたことがないピアニスト。(2)もうひとつは初期の録音で聴ける往年の大ピアニスト。そして、(3)実際に著者が生で聴いたことのある現在の(といってもショーンバーグの同時代のという意味だけど)ピアニスト。まず読みはじめるにあたって、本の最初から(1)の部分を読み進めながら、(2)の部分と(3)の部分も拾い読みしている。分量としては(1)が圧倒的に多い。
●まだ全体のほんのほんのごく一部を目にしただけだが、(1)の部分はまちがいなくおもしろい。つまり、読み物としてのおもしろさ、読書の楽しみが保証されているなと感じる。なるほど、ショーンバーグって漠然と高名な評論家の先生みたいなイメージだったけど、長年新聞で書いていただけあって一般の読者に向けての書き方を心得ていて、さすがに巧い。アカデミックな香りを決して漂わせず、平たく書きながらも見識を感じさせる。一方、(3)の部分に入ると扱うピアニストによってかなり濃淡があるかもしれない。生演奏ではなくレコーディングのほうに重きを置いた記述が目立つのがやや意外か。(1)(2)との整合性を優先したためなのかどうなのかはわからないが……。現代のピアニストに対しては、よく演奏会評やレコード評で用いられるような形容句を積み重ねて演奏スタイルを詳述するというよりは、客観性を心がけつつ歴史的文脈のなかでの位置づけを明らかにしようとする記述が目立つだろうか。著者の基本的な姿勢として、19世紀風のロマン主義的なスタイルの演奏に対する共感がある、と思う。あ、いやいや、まだ読んでない、今から読もうとする本にそんなに決めつけてしまってはいけないのだった。ともあれ、これは「内容」という点でも「どう書くか」という点でも、大いに読みがいのある一冊になりそう。
●索引は力作。これはすばらしい。こういう本は索引の役割が超重要。できることなら電子版もあって検索できたら最高だけど。ひとつよくわからないのは訳者略歴が載っていないこと。名著の新訳という性格を考えれば、刊行の経緯なども記した訳者あとがきもぜひ欲しかった。
2015年4月15日
反田恭平デビューコンベンション
●14日は日本コロムビアの主催で、反田恭平デビューコンベンションへ(サントリーホール ブルーローズ)。わ、こんなに大勢の業界関係者が集まっているとは、と驚くほどの盛況ぶり。ピアニストの反田恭平さんは1994年生まれ、まだ20歳。2012年、高校在学中に日本音楽コンクールで第1位(高校生での優勝は11年ぶりだったとか)、桐朋学園に入学、現在はモスクワ音楽院に留学中。今回、日本コロムビアからリスト・アルバムでデビューすることに。日本コロムビアはマネジメントにも携わる。9月には東京フィルのオペラシティ定期に登場する。トークの合間にモシュコフスキーとリストの作品を弾いてくれた。
●ピアノは録音にも使用された1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD75ということで、音色の幅がきわめて広く、特に高音域の圧倒的なきらびやかさに、ピアノという楽器の歴史的変遷に思いを馳せずにはいられない。楽器のキャラクターがあまりに強烈だったが、演奏も大胆かつ輝かしく、訴えかける力の強いものだった。
●反田さんのピアノは昨年、調布音楽祭でも聴いている。そのときの印象からすると、すいぶんこの日のトークは澄ましていたというか、美容院行ってきました!的なジャケ写モードのスマートさが前面に出ていたけど、もっと率直な感じでキャラクターが伝えられてもよかったかも。「レコーディングを終えてふらふらになって帰ったら、熱が40度あった」みたいな話題がほほえましい。すでにファンクラブまで出来ているそうで、これからどんどん人気が高くなるにちがいない。自分の道を突き進んでほしいと願うばかり。
2015年4月13日
カンブルラン&読響のブルックナー、ヴァイグレ&N響とヨン・グァンチョルのワーグナー
●毎週金土日はコンサートが集中しがちだが、それにしてもこの週末はすさまじかった模様。特にオケ。
●10日はカンブルラン指揮読響へ(サントリーホール)。リームの「厳粛な歌」歌曲付き(バリトン:小森輝彦) 、ブルックナーの交響曲第7番。リームは高音楽器のないオーケストラが生み出す渋くくすんだ響きが特徴的。ヴァイオリン抜きのオーケストラだと、首席ヴィオラ奏者がチューニングの合図を出すことを知る。ブルックナーは予想以上に斬新で、宗教的恍惚感とは無縁の美しさを作品から引き出してくれた。白眉は第2楽章。ほとんどメンデルスゾーンを思わせるような清冽さがすばらしい。ブルックナーの交響曲から儀式性を剥ぎとるという試みは数多くなされている一方で、結果として新しさよりも欠落感が残ることもままあるわけで、その点では大成功だったのでは。後半進むにつれて焦点がずれて、最後は予定されたデザインからはみ出したところに着地したような印象も受けたけど、それでもここ数年に聴いたなかではもっとも刺激的なブルックナーだった。
●11日はセバスティアン・ヴァイグレ指揮N響へ(NHKホール)。前半はベートーヴェンの「田園」だが、後半は得意のワーグナーで、「トリスタンとイゾルデ」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」からの抜粋ということで、なんだか「東京・春・音楽祭」のワーグナー・シリーズ外伝みたいな感じ。歌手はバスのヨン・グァンチョルひとりなんだけど、舞台に出てきて最初の一声を発声した瞬間に客席全体の雰囲気がサッと一変した。「トリスタンとイゾルデ」は、前奏曲と「愛の死」の間にマルケ王の「それはほんとうか」がはさまれたんだけど、前半「田園」の長閑な空気から急に熱っぽいオペラ劇場モードに。唐突にはじまったはずのマルケ王の苦悩と悲哀に、みんなが食い入るようについてくる。盛大なブラボー。「マイスタージンガー」は、「親方たちの入場」、ポーグナーの「あすは聖ヨハネ祭」、第1幕への前奏曲という順番。こちらもヨン・グァンチョルの歌唱はすばらしかったが、拍手と退場をはさんで第1幕への前奏曲が演奏されたので、客席のテンションはいったん途切れることに。ヴァイグレはティーレマンを連想させる、かなり。
2015年4月 8日
東京・春・音楽祭、ワーグナー「ワルキューレ」演奏会形式
●7日は東京・春・音楽祭のワーグナー・シリーズvol.6「ワルキューレ」演奏会形式(東京文化会館)。例年は平日1公演の後に週末1公演だったと思うけど、今年は先に4日に週末公演があった後での平日公演。火曜日の15時開演だがお客さんはよく入っている。4日は満席で評判も上々だった。
●オケはヤノフスキ指揮N響、コンサートマスターにライナー・キュッヒル。第1幕冒頭からひきしまった強靭なサウンド。外形上の熱いドラマや情感の豊かさを排して、音楽の純度や強度を高めた結果、むしろ雄弁なワーグナーになったというか。ひりひりとした緊迫感に貫かれた筋肉質の「ワルキューレ」。すばらしい。速めのテンポも吉。歌手陣で盛大な喝采を受けたのはフリッカ役のエリーザベト・クールマン。キャサリン・フォスター(ブリュンヒルデ)、エギルス・シリンス(ヴォ―タン)、ワルトラウト・マイヤー(ジークリンデ)、ロバート・ディーン・スミス(ジークムント)、シム・インスン(フンディング)の陣容。
●よくコンサートで取りだして演奏されるのは第1幕。でも第1幕は音楽はともかく、物語的には動きが少ない。がぜん話がおもしろくなるのは第2幕から。第2幕以降は「夫婦ゲンカ」「親子ゲンカ」「娘を嫁に出す父親」の三段コンボという、神話世界をまとったファミリー・ドラマ。だから、ワーグナーでいちばん泣ける。それにしてもヴォータンとフリッカの夫婦ゲンカを描くワーグナーの筆は冴えまくっている(そしてクールマンの鬼嫁歌唱も)。ヴォータンのその場を言いつくろっているだけのダメ亭主っぷりに対して、このフリッカの容赦ない舌鋒の鋭さと来たら。言うことがいちいちもっとも。亭主よりも奥さんに世界運営を任せたほうが絶対にうまくいくと思うもの。
●ジークリンデがお腹に宿した子はやがて勇者になる……ってみんな言ってるけど、女の子が生まれる可能性は考慮されていないのであろうか。「ほうら、元気な赤ちゃんが生まれましたよー、女の子です~。完」とか。
●このシリーズ、回を重ねるにしたがっていろんなところが練れてきて、演奏会形式の上演として成熟度が深まっている。ただ、どういう背景映像がいいのかは悩みどころか。今回は最小限の静止画をベースに、時折視点の移動や雨や嵐、山を覆う炎などの演出が添えられていた。オーソドックスで、観る人の想像力を妨げない節度があって映像演出としては納得がいくけど、CG画像が二昔前のゲームソフトみたいな解像度で、どうしてもセガサターンで遊んだ「ミスト」とか懐ゲーを想起してしまうのは避けられない。なにもないよりは絶対になにかあったほうがいいという確信もあるので、なにか完全な静止画像でもいいから、目にした瞬間に「わっ、きれい」と思える画があったらいいのかも。
2015年4月 7日
東京・春・音楽祭、メルニコフの「24の前奏曲」シリーズ
●絶賛開催中の東京・春・音楽祭。「24の前奏曲」シリーズは、アレクサンドル・メルニコフの2公演に足を運んだ。3/29にショスタコーヴィチ(東京文化会館小ホール)、3/31にドビュッシー(上野学園石橋メモリアルホール)。
●この「24の前奏曲」シリーズ、ほかにショパンとスクリャービンがあるんだけど、ショスタコーヴィチのほうは「24の前奏曲」ではなくて、「24の前奏曲とフーガ」なんすよね。両方あるからうっかりするとまちがえやすい。「24の前奏曲」のほうはショパン、「24の前奏曲とフーガ」のほうはバッハの系列に連なるということか。メルニコフは「24の前奏曲とフーガ」全曲を一回の公演で弾いてくれた。途中に2回の休憩をはさんで3時間以上の長丁場。番号順。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」とは違い、ハ長調、イ短調、ト長調、ホ短調、ニ長調、ロ短調……といったように平行調とセットにしながら5度ずつ上がっていくという曲順なので、順番も強く意識されている曲集、なんだろうか。でも、一回で弾くにはかなり長い。ショスタコーヴィチ本人の録音ではいろんな順番で抜粋しているっぽいが……。メルニコフは第12曲嬰ト短調までの長めのひとまとまりを一気に弾いて、最初の休憩に入り、次は第13曲嬰ヘ長調から第16曲変ロ短調までの4曲セットのみで2回目の休憩へ、その後残りの8曲を弾くという形。第1幕が長い3幕物のオペラを聴く覚悟で臨んだ。譜めくりあり。
●ドビュッシーは前奏曲集第1巻12曲+第2巻12曲で計24の前奏曲。ほぼ作曲当時の楽器である1910年製のプレイエルを使用。ニュアンス豊かで、演奏としてはこちらのほうが楽しめた。ドビュッシーまで下っても、これだけモダンピアノとは別の楽器であるとは。逆説的にモダンピアノの(少なくともマーケットにおける)汎用性の高さに驚嘆せざるをえない。メルニコフはときどき譜面台に目をやっているのだが、自分の席からだと譜面台になにか乗っているようには見えない。ページもめくっていない。休憩中に下手側から見てみると、譜面台には電源の入ったままのタブレットPCが置かれていた。足元にはフットスイッチと思しきものが。1910年製鍵盤楽器と2010年代製デジタル・デバイスがひとつの絵に収まっている様子はなんだかエレガントだ。
2015年4月 3日
ネーメ・ヤルヴィ指揮エストニア国立交響楽団の HIROSHIMA は幻に?
●以前、当サイトfacebookページでもお伝えしたが、この5月、エストニア国立交響楽団のシーズン最後のコンサートで、首席指揮者のネーメ・ヤルヴィが佐村河内守/新垣隆作曲の交響曲第1番 HIROSHIMA を演奏することになっていた。権利関係等々、どうやってクリアするんだろう、でももう日本国内では事実上演奏できなくなった曲をあっさりエストニアでパパ・ヤルヴィが指揮してしまうというのもなんだかスゴい話だなあ……と思っていたら、いつのまにか、当該公演の曲目も指揮者も変更されてしまった。
●以下のように、ニコライ・アレクセーエフがチャイコフスキーの「モーツァルティアーナ」他を振ることに。このページだけを見ると「HIROSHIMA」の影も形もなくなっているのだが、URLにかろうじてhiroshimaの文字列が残っていて、デジタル遺跡みたいなことになっている。
http://www.erso.ee/?concert=hiroshima-final-concert-of-the-season&lang=en
●この話に続きがあるのかどうか、ワタシは知らない。
2015年4月 2日
コルステン&読響、ドゥダメル&LAフィル
●もう先週の話題なのでほとんど自分用メモ。3月27日はサントリーホールでジェラール・コルステン指揮の読響定期。前半はモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」他。ノン・ヴィブラートを取り入れ、細部に仕掛けを施したモーツァルトだったが、アグレッシヴではなく、音楽の表情と指揮台から何度か発せられるドスンという足踏み音との間に乖離も感じる。しかし後半のシュトラウス「英雄の生涯」は一転して雄弁なスペクタクルに。緻密に描きこんだ音絵巻ではなく、ぐいぐいと前に進むシュトラウス。豪放磊落。長原幸太さんの大ソロは鮮やか。なかなかこうはいかない。
●28日は待望のドゥダメル&LAフィル。マーラーの交響曲第6番「悲劇的」のみのプログラム。LAフィルが屈指のスーパー・オーケストラであることを改めて感じる。分解能の高さ、鮮やかな色彩。以前、同コンビのマーラーの交響曲第9番をウィーンで聴いたときも感じたことだけど、壮麗さと健全さの反面、世界の苦悩を背負って立つみたいなマーラー像を期待すると肩透かしをくらう。昨年、ドゥダメルがウィーン・フィルと聴かせてくれたシベリウスは、濃厚な表情が添えられた大柄なシベリウスだった。遠慮がちに見えたスカラ座との来日公演や、DCHで観るベルリン・フィルとの共演、SBYOとのノリノリの録音等々、聴くたびにドゥダメルの印象は更新され、一定しない。もはや好きかどうかすらよくわからない(笑)。
●「悲劇的」のハンマーは珍しいタイプで、真新しい木で組み立てられた巨大な角型巣箱(つまり前面に丸穴がある)みたいなものがステージ下手奥に置かれていた。これの上面を、木槌でぶっ叩く。衝突面の高さがけっこう高いので、P席のお客さんから見ると目の前で叩かれるわけで、相当にスリリングだったと思う。叩いた瞬間に、ぱっと細かい木屑が飛んだっぽい。あれは材料をバラして持ってきて日本で組み立てたんだろうか。
●アメリカのオケはだいたいみんなそうじゃないかと思うんだけど、開演時の入場は楽員ごとにばらばらで、時間が来たらいつのまにかコンサートマスター以外、みんな着席している。この方式はすごくいいと思うんすよね。「入場の儀」がなくなって、すっと本番に入る感が。終わった後の退場も全員でパッといなくなるんじゃなくて、ドゥダメルの一般参賀になってもまだステージ上はかなりの人が残ってる。この切れ目のないずるずるした雰囲気は好き。
2015年3月31日
METライブビューイング「イオランタ」&「青ひげ公の城」2本立て
●METライブビューイング、今週はチャイコフスキーの「イオランタ」とバルトークの「青ひげ公の城」という2本立て。「イオランタ」はなんとMET初演。バルトークも新演出。どちらもマリウシュ・トレリンスキ演出、ゲルギエフ指揮。
●これはもう、あまりに鮮やかな2本立て。「イオランタ」って、盲目のイオランタ姫が父親である王さまによって隔絶された世界で育てられるっていう話なんすよ。イオランタは自分が普通とは違うということを知らないまま育てられている。だれもイオランタの前で光について語ることは許されない。父にとって、それが愛の形。そこに王子さまがやってきて、イオランタは恋をして、これをきっかけに視覚を取り戻してハッピーエンドに至る。チャイコフスキーの音楽はすばらしいんだけど、台本は話の運びがもうひとつで、ストーリーを前に進める原動力に乏しく、平板な予定調和に終わっている。同じように「娘を守ろうとかごの鳥みたいに育ててしまった父親」を描いたオペラに「リゴレット」があるが、「リゴレット」にはあらゆる登場人物にそれぞれの立場からの真実があるのに対し、この「イオランタ」の登場人物には奥行きが感じられない。なるほど、これではMETで100年以上も演奏されなかったわけだと思う。ところが。
●「イオランタ」の後に「青ひげ公の城」を続けることで、一転してこれが真実味のある物語に変貌してしまうんである。演出のトレリンスキは、イオランタの後日譚を「青ひげ公の城」のユディットに見た(!)。鋭すぎる。ユディットが青ひげに「薔薇も婚約者も捨ててきた」って話すのが見事に「イオランタ」のストーリーに呼応してて戦慄。つまり、これは闇の世界で生まれた少女が光を得たことで、また闇の世界に帰る話になっている。光を得た、すなわち世間を知った姫が、次にすることといったら闇を探すことしかない。
●「青ひげ公の城」で描かれる闇はあまりに深い。なんだかアル中の暴力父のもとを逃げ出した娘が、アル中の暴力夫を迎えたみたいな話を思い出す。
●裏を返して、「青ひげ公の城」で語られないユディットの前日譚を、ほのぼのハッピーエンドの「イオランタ」に見出したと考えるとますます強烈(実際には先に「イオランタ」ありきだったにしても)。イオランタはネトレプコ、ヴォデモンはペチャワ。青ひげ公はミハイル・ペトレンコ、ユディットはナディア・ミカエル。「青ひげ公の城」では各部屋を巡るのをエレベーターで下へ下へと移動する形で表現していて、閉塞感がいっそう強まっていた。