
●12日はNHKホールでファビオ・ルイージ指揮N響。ルイージ念願のフランツ・シュミット作曲のオラトリオ「7つの封印の書」が演奏された。第2000回定期のときに投票で選ばれなかったのがこの曲(選ばれたのはマーラー「千人の交響曲」)。あのときはどう見ても「7つの封印の書」を選んでほしそうなラインナップだったけど、なにしろなじみが薄い。結果的にN響創立100年シーズンの開幕に演奏されて、首席指揮者ルイージ時代のハイライトというべき公演になったと思う。合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮冨平恭平)。ヨハネにテノールのミヒャエル・ラウレンツ、オルガン席で上方から歌った神の声にバスのダーヴィト・シュテフェンス、ソプラノに迫田美帆、メゾ・ソプラノに藤井麻美、テノールに伊藤達人、バスに加藤宏隆、オルガンに新山恵理。
●ライブで聴いたのは初めてなので、ほかとの比較はできないのだが、ルイージならではの壮麗さと澄明さを兼ね備えた「7つの封印の書」を聴くことができた。精緻。この曲、冒頭動機やおしまいの「ハレルヤ」など明快簡潔で力強い部分と、対位法を駆使した複雑で重層的な部分との対比が強烈で、曲想もオペラ風から聖歌までと振幅が大きい。ルイージはこれを型破りなキメラ的大作とするのではなく、古典性を獲得した真摯な宗教音楽として提示していたと思う。弛緩することなくまっすぐなドラマとして黙示録の物語を描く。休憩なし。
●フランツ・シュミットは敬虔に「ヨハネの黙示録」に向き合って曲を書いているので、この作品の難しさは黙示録そのものの受け入れづらさを反映していると思う。外見上の共通性があっても(ヨハネ/福音史家、神の声/イエス)、「マタイ受難曲」とは比較にならない手強さ。予備知識なしに聴くと、なぜ殺戮や飢饉や大地震のような災厄が訪れたのに輝かしいハッピーエンドの音楽で終わるのか、わからないかもしれない。大前提として、これらの災厄は神の意志で行われている。人々が待望する神の裁きが下されているのだ。つい現代人はこれを戦争や飢饉に対する警鐘のように受け止めたくなるが、そうではない。神の意思に従って、大勢の人々が死ぬ。そこには「敬虔な信徒なら生き残れる」みたいな選別はなく、みんなが死ぬ。というのも、ここでは現世的な幸福などに焦点は当たっておらず、問題は死後にある。千年王国を経て、新しい世界が作られる。ここで人々は復活を果たすのだが、だれもが永遠の生を手にするわけではない。そのあたりはちゃんと歌詞に歌われているわけだけど、「命の書」に名前を書かれている神に忠実な人だけが永遠の生を手にするのだ。じゃあ、名前が書かれていない人はどうなるかというと、火の池に放り込まれる。肝心の選別は死後なのだ(異教徒はどうなるんでしょうね……)。ちなみにここでの復活とは、「スター・ウォーズ」のジェダイみたいに霊的存在として天のどこかで生き続けるようなイメージではなく、イエスのような肉体を伴った復活だという理解。
●黙示録的な世界観は実はワタシたちにはポップカルチャーを通しておなじみのもので、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」やRPGゲーム「真・女神転生」シリーズ等でくりかえし登場している。でも、少なくとも日本で描かれる場合は、「世界の終わりと再創造」のゴールが本来の黙示録と違うところに設定されることがほとんど(あるいはすべて)では。「エヴァンゲリオン」の「人類補完計画」みたいなビジョンが掲げられたとき、「そんな完全かもしれない世界よりも、不完全であっても今わたしたちが有する人間性を失わないほうがいい」というのが主人公のスタンスになりがち。いちばんわかりやすいのが「真・女神転生」で、プレーヤーはゲームを通じて選択を重ねることで、神の秩序にもとづく新世界へと至るLawルート、悪魔による無秩序な混沌が支配するChaosルート、そのどちらでもない人間が今のままの人間として世界に向き合うNeutralルートのいずれかのエンディングにたどり着く。ヨハネの黙示録=フランツ・シュミットの「7つの封印の書」でたどり着くのは、当然ながらLawルート。教徒にとって、神の意志に反するゴールなどありえないだろう。でも、このゲームでもうっすらとした正解ルートのように見えるのは、人間中心主義(ヒューマニズム)のNeutralルート。ワタシたちは黙示録的世界が出てきたら神の意志に従わないのが正解ルートという物語をくりかえし摂取してきたので、本物の黙示録に対して「えっ、そっちがゴールでいいわけ?」的な困惑を抱いてしまうところに、「7つの封印の書」の本質的な難しさがあると思う。なぜそこで「ハレルヤ」なのかを体感的に理解できないというか。信仰とヒューマニズムの間の緊張関係があらわになる部分だ。
●「ヨハネの黙示録」の受け止め方は教派によってずいぶんと違うようだが、この著者ヨハネとはだれかという問題もある。伝統的には使徒ヨハネと同一人物とされてきたが、現代の学説では別人とされているのだとか。えっ、別のヨハネなの?と、びっくり。成立も紀元90年頃で意外と遅い。
●客席にロレンツォ・ヴィオッティの姿。ヴィオッティ指揮東響もまもなく「7つの封印の書」をとりあげる。恐るべき偶然。
ファビオ・ルイージ指揮N響のフランツ・シュミット「7つの封印の書」
ヴァレーズの「密度21.5」

●エドガー・ヴァレーズの作品でいちばんよく演奏されているのは、無伴奏フルートのために書かれた「密度21.5」だろう(「比重21.5」とも訳される)。初演は1936年。この曲のタイトルがプラチナの密度を指していることはよく知られていると思う。プラチナの密度は21.45 g/cm³。3桁に丸めて21.5となっている。鉄の密度が7.87 g/cm³だから、大変な重さだ。初演者はフランス出身でアメリカで活動したジョルジュ・バレール。バレールはプラチナのフルートを用いていた。当初、ヴァレーズは題を付けていなかったが、楽譜を手渡した際にバレールから曲名を求められて、プラチナのフルートのお披露目として書かれたことから、プラチナの密度を曲名にすることを思いついたというエピソードが残っている(沼野雄司さんの「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」を読むと、実際のところはもっと前から密度を曲名にするアイディアがあった可能性が高そうだが)。
●で、どうしてプラチナに焦点が当たっているかというと、バレールがとんでもない高額の楽器を購入して、その価格が話題になっていたから。金額は1936年時点での3000ドル(こういう比較は難しいけど、現代価値に換算すると1千万円以上か)、しかもバレールはその10年前にも1000ドルの金のフルートを使って話題を呼んだそうなので、「あのバレールがこんどはプラチナかよ!」という驚きがあったわけだ。1935年12月22日のTIMEの記事がネット上に載っていて(すごいね)、この記事によると「アメリカの3万人のプロのフルート奏者のうち、5人を除いて全員が銀かもっと安い金額の楽器を使っている。だが、バレールは10年前に1000ドルの金のフルートを演奏しはじめて、こんどは3000ドルのプラチナのフルートを披露した」。この記事は金属の密度について、銀が10.5、十四金が13.2、純金が19.3、純プラチナが21.5であることも紹介している。さらに、バレールの新しいフルートが、正確にはプラチナ90%、イリジウム10%でできており、密度は21.6になると記している(イリジウムはプラチナよりさらに重い)。ちなみにこの記事はヴァレーズが曲を書く前のもの。ヴァレーズはこの記事を読んだのかもしれない(記事同様に3桁に丸めているし、草稿段階でDensity 21.6という鉛筆書きを残しているそうなので。自分で計算して21.6の数字は出さないだろう)。
●バレールのコメントも紹介されている。「この楽器を使うのは、預金残高を誇示したいわけでも、大恐慌が終わったと言いたいためでもないんだ」。楽器の値段ばかりが話題になって不本意だと言いたげな口ぶりである。加えて、超高額な楽器が取りざたされる背景には、これが大恐慌の後だったという文脈があることがうかがえる。
●ただ、前述の沼野本で知ったけど、1936年の初演時の「密度21.5」は2分ほどの作品で、出版も録音もされず残っていないそうで、われわれは倍ほどの長さになった1946年の改訂稿しか知らないことになる。バレールはひんぱんにこの曲を演奏していたというから、どこかに初稿の放送音源が残っていないのだろうか。
オルタナティブ夏休み、千葉

●実は先週末から3日間、夏休みをとって、今年も諏訪湖と霧ヶ峰を訪れる予定だった。が、天気予報では3日間ともかなりの雨。おまけに都内の気温がぐっと下がり涼しい場所に行く理由を失ってしまったので、あきらめて宿も電車もキャンセルした。楽しみにしていたのが、こんな天候では仕方がない。それで、せめて近場で行ったことのない場所に行こうと考えて、日帰りで千葉へ。蘇我のスタジアムにはなんども行っているが、千葉県立美術館と千葉市美術館はまだだったので、はしごすることに。
●で、千葉県立美術館で見たのは「ひらく、めくる、めぐる―印刷博物館の美しい印刷」(すでに会期は終了)。貴重な書物がたくさん展示してあって、見ごたえがあった。もっとも、これはTOPPANの印刷博物館の協力によるもの。TOPPANホールと同じ建物のあそこだ。わざわざ千葉で見なくても、と思わなくもないが、こういう機会でもなければ見ないとも言える。

●たとえば、これは1511年のデューラーの画による「黙示録」(ラテン語)。もうすぐN響と東響がフランツ・シュミットの「7つの封印の書」を演奏するが、そのテキストにもなった「ヨハネの黙示録」だ。500年前の書物がそこにあるという事実だけでも感激するわけだけど、こういったラテン語の書物にスマホを向けてGoogleレンズを使うと、その場で日本語で読めてしまう。あれもこれもと読ませてみて、すごい時代になったなと思う。
●撮影可が前提だが、美術館・博物館はAIと相性がよい。添えられたキャプションからさらに踏み込んだ知識を容易に得ることができる。たとえば、この「黙示録」がどういう場面を描いたものなのか、AIに要約してもらえる。これが「ヨハネの黙示録」第12章の「太陽をまとった女」と「大きな赤い竜」の場面であり、「天に大きなしるしが現れた/太陽をまとい、月を足の下に置き、頭に十二の星の冠をかぶった女がいた/また、七つの頭と十本の角をもつ大きな赤い竜が現れた/女は男の子を産み、その子は神のもとへ引き上げられた」といった聖句が記されていることがわかる。翻訳だけではなく、作品の魅力や解釈について話し相手になってもらい、そこから新たな気づきを得ることもしばしば。

●せっかく千葉みなとまで来たので、千葉ポートタワーにも行ってみた。高いところが苦手なのに最上階の展望フロアへ。

●いろんな工場を見ることができる。サイロやコンテナ船、製鉄所、発電所など、ここは産業景観が見ものなのだと知る。

●千葉みなとエリアで食事をとり、30分ほどの移動時間で千葉市美術館へ。こちらは企画展がお休み中で常設展のみだったが、十分に楽しめる。現代美術コーナーの本城直季作品がとくによかった。本物なのにジオラマみたいに見える写真。これは「small planet 千葉市中央区」(2021)。
●3日間の休みだったので、あとは映画「Michael マイケル」、映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を観たのだった。コロナ禍のマイクロツーリズムを思い出す小規模な夏休み。
「音楽こそわが天命 ヘルベルト・ブロムシュテット自伝」[増補新版]
●ちょうど高松宮殿下記念世界文化賞の音楽部門受賞者にヘルベルト・ブロムシュテットが選ばれたというニュースがあったが、「音楽こそわが天命 ヘルベルト・ブロムシュテット自伝」(アルテスパブリッシング)の増補新版が刊行されている。聞き手はユリア・スピノーラ。これは2018年に刊行された本に、新たに2025年春に行ったインタビューを第9章「究極の決定はほかでくだされる」として追加したもの。
●増補新版で追加された第9章は20ページほど。かつてスウェーデンではブルックナーがなかなか受け入れてもらえなかったことや(スウェーデン放送交響楽団にデビューした際、なにを提案してもいいがブルックナーだけはダメだと言われたエピソードなど)、特別な思い入れを持つベルワルドの交響曲第3番をウィーン・フィルとベルリン・フィルで指揮した際の比較がおもしろかった。
●初出時の当欄での紹介はこちら。過去の失敗なども率直に語っており、必読の一冊だと思う。
映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」
●昨日に続いて映画の話題をもうひとつ。「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(フィル・ロード&クリストファー・ミラー監督)をようやく見た。なにしろアンディ・ウィアーの原作小説があまりに傑作で、あの盛りだくさんの内容をどうやって2時間半強の映画に収めるのかと思っていたが、手際よく完成度の高い映画に仕立てられていて感心。主人公が宇宙船のなかで目を覚ますところから始まるのは原作と同じ。長期の昏睡状態から目覚めて、自分がなぜ地球からはるか離れた場所を飛んでいるのかも思い出せないが、次第に記憶がよみがえってくる。全人類の危機に対処するために片道旅行の恒星間宇宙船へと旅立ったのだった……。
●で、これが小説の場合はなにも知らずに読んでいて、あるところでまさかの出来事があって心底びっくりしたのだが、映画の場合はそうもいかないわけで、あらゆる紹介記事でその先の展開が書かれている。ていうか、予告編で盛大にネタバレしてるし。でも知らないで見たほうが感激すると思うんすよねー。
●原作に比べると、「サイエンス」がだいぶ軽くなって、「ドラマ」がしっかり残ったという印象。これはやむを得ないところで、映画内では主人公の思考経路を延々と独白させるわけにはいかない。映画は観てわかるものしか表現できない。一方、小説ではイメージがぼんやりしていたあれこれの造形をはっきりと伝えられるのは映画の強み。宇宙船とか、あれやこれやを目にできて感激。宇宙船が回転して人口重力を作る様子とかも、やっぱり目で見ると熱い(と、肝心なことはぼかす、無駄な抵抗と知りながら)。
映画「Michael マイケル」
●遅ればせながら、映画館で「Michael マイケル」(アントワン・フークア監督)。ほぼ予備知識なしに見たけど、目と耳がスクリーンにくぎづけ。同時代のスーパースターとはいえ、マイケル・ジャクソンの音楽に興味を持ったことのない自分が、これほど感激できるとは。
●てっきりマイケル・ジャクソンの光と影、栄光と転落を描いたものかと思いきや、そうではなく、少年時代からスーパースターへとのぼりつめる「前半部分」でできている。だから映画のなかではハッピーエンドで終わるんだけど、これは納得で、映画の真の主役は音楽とダンス。次から次へと登場するマイケルの名作(さすがに懐かしい)。どれも色褪せていない。少年時代から並外れた歌唱を聴かせ、ダンスはキレッキレ。すげえな……と思ったところでハッと気がつく。これ、ドキュメンタリーじゃなくて映画だった。じゃあ、歌ってるのはだれ? 踊ってるのはだれ? 役者が演じているとはとても思えない。マイケルそのものじゃん!
●観終わってから知ったんだけど、マイケル役はジャファー・ジャクソン。マイケルの甥(ジャーメイン・ジャクソンの息子)で、ミュージシャンでありダンサー。完全にマイケルが憑依している。これはジャファーが歌ってるの? それともマイケルの歌をテクノロジーの力を借りて被せているの? 途中で顔が変わるのはどうやってるの。子役がちゃんと成長しているのはなぜ。スタジアムでのライブ・シーンが本物に見えるんだけど、どこまでCGなの? すべてがあまりに本物らしくて、狐につままれた気分。
アクセスログとAIの足跡

●ふだん、このサイトのアクセスログを見ることはないが、思うところがあって久々に生ログを眺めてみた。現状、このサイト全体で一日あたり平均1万1千から1万2千ページのアクセスがある。昨年の11月に遅まきながらサイトをセキュア化したら(httpからhttpsにした。遅すぎ)、アクセス数が即座に回復し、今も増加傾向にある。それまではhttpであるがゆえに年々Googleからのランク付けが下がっていたようなのだが、httpsにしたら戻ったらしい。
●もっとも、一日に1万2千ページ読まれているといっても、本日の新しい記事をその日のうちに読んでくれる人は推定10分の1程度で、大半のアクセスは過去記事に対してのもの。毎月、Googleからアクセス上位ページのランキングが送られてくるが、決まって上位に入る記事がいくつかあって、そのなかには大昔の記事も含まれる。そういった上位記事は累計するとけっこうなアクセス数になるだろう。XなどSNS上の人気投稿は数時間から一日くらいで爆発的に広まって数日で落ち着くのに対して、ブログの記事は何か月とか何年とか経ったときに「あ、これ、実はバズってた」「こっちはだれも読んでなかった」とわかる長距離砲みたいな感じだ。アーカイブめがけて遠投している気分で、どこまで飛んだかは時間が経たないとわからない。
●で、どうしてアクセスログを見たかといえば、理由はAIだ。あるとき、Geminiに質問をしたら、回答の典拠として自分のブログが出てきた。少し間抜けな状況だが、AIが読みに来てくれているのは歓迎すべきこと。じゃあ、その足跡がアクセスログに残ってるんじゃないの?と思い、確かめてみたのだ。
●たった一日のログを見ただけなんだけど、AIはいっぱい来てた。たとえば、ChatGPTからやってくるクローラーには3種類あって、それぞれ異なるUser-Agent名を残していく。各々の名前と役割はこうなっている(ChatGPT本人談)。
GPTBot:AIモデルの学習・改善に利用する可能性のあるコンテンツ収集
OAI-SearchBot ChatGPT:Search用の検索インデックス作成
ChatGPT-User:ユーザーの質問・操作に応じて、その場でページを取得
この3種類とも1日分のログファイルに含まれていた。AIの学習用にはGPTBot、ユーザーからの質問に答えるためにその都度検索してくるのはChatGPT-User、みたいに役割分担がでてきているのがおもしろい。これがClaudeの場合だと、以下のようになる。
ClaudeBot:モデル開発・学習に利用されうるWebコンテンツの収集
Claude-User Claude:ユーザーの質問に応じて、その場でWebページを取得
こちらもしっかり来ていた。AIたちがウチのどの記事を学習したか/検索したかを知ることができるのは興味深いが、公開記事なんだから来てくれて当たり前ではある。検索エンジンと同じだ。
●ただ、困った面もある。ユーザーは検索エンジンで見つけた情報については、参照元のサイトを見に来てくれるが、AIで知った事柄については参照元にほぼ来ない。AIとユーザー間の会話だけで完結する。AIが強力になればなるほど、ユーザーが参照元にアクセスする機会は減るだろう。コンテンツ発信者側からすると、発信する意義が感じられなくなったり、ビジネスとして成立しなくなったりする。だが、AIの集合知とはもともと人間の発信者から学習してできあがっているわけで、その学習元がやせ細っていくという状況はAIが自分で自分の首を絞めているようにも思える。今後、発信者側はどうするのが正解か……ということを当のChatGPTと話し合ったのであった。
鈴木愛美 小井土文哉 谷昂登 Concerto Festival
●2日は東京オペラシティで「鈴木愛美 小井土文哉 谷昂登 Concerto Festival」。3人の若手ピアニストが登場して、一夜で3曲の協奏曲を弾くという演奏会。前半は小井土文哉がラヴェルのピアノ協奏曲、谷昂登がシューマンのピアノ協奏曲、後半は鈴木愛美がベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾いて、沼尻竜典指揮東響と共演。3人ともこれまでに1~3回ほど聴いたことのある人なので、サプライズではなく、それぞれが進境を示す好演。小井土文哉のラヴェルは軽妙洒脱というよりは重くロマン的で、筆圧強め。谷昂登のシューマンは強靭なタッチで白熱、前へ前へと直線的に驀進するシューマン。
●白眉は鈴木愛美のベートーヴェン。清新さと格調高さを兼ね備えた本格派のベートーヴェンで、造形としてはオーソドックス。作品の核心に迫る説得力のある表現。華よりも聡明さを感じる。これまでにくりかえし第3番を弾いていたけど、今回は第4番。着実に作品を手の内に収めているといった様子。客席は盛大な喝采。オーケストラも集中度が高く、サポート役に留まらない聴きごたえのある演奏。東響は歴代指揮者陣との蓄積があって、やはりベートーヴェンがうまい。
