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August 19, 2026

読響サマーフェスティバル2026「三大協奏曲」

読響 「三大協奏曲」 2026
●18日は東京芸術劇場で読響サマーフェスティバル2026「三大協奏曲」。一晩で3人のソリストを聴けるお得な公演。18時30分開演で、夜が遅くならないのがありがたい。今年の出演者はヴァイオリンの佐々木つくし、チェロの水野優也、ピアノの角野未来。指揮は角田鋼亮。前半がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とドヴォルザークのチェロ協奏曲、後半がチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。佐々木つくしのメンデルスゾーンは自然な音楽の流れを保ちつつ、静かに白熱。水野優也のドヴォルザークは力強く輝かしい。分厚いオーケストラの響きに埋もれることなく、雄大な音楽を築きあげる。この日の白眉。角野未来のチャイコフスキーは強靭さやスペクタクルよりも、作品に込められた抒情性と幻想味に焦点を当てる。指揮の角田鋼亮はソリストの背景に溶け込むのではなく、オーケストラから力強く推進力のある音楽を引き出して好感度大。
●メンデルスゾーンが楽章間の拍手を嫌って曲をつなげて書いたという話はよく目にするけど、ドヴォルザークのチェロ協奏曲とかチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は第1楽章が終わったところで「はい、拍手、どうぞーー!!」っていう書かれ方をしていると思う。実際、拍手したくなる。だれもしないけど。19世紀には楽章間に拍手をするだけではなく、そもそも協奏曲や交響曲を全曲続けて演奏するとは限らず、楽章間に別の曲を挟むことすらあったわけで、たとえばショパンのピアノ協奏曲第1番の初演では、第1楽章と第2楽章の間にソリヴァという作曲家の合唱付きアリアが演奏されたし、同じくショパンのピアノ協奏曲第2番の場合は第1楽章と第2楽章の間にゲルナーの「ホルンのためのディヴェルティスマン」が演奏された。こういう場合は「楽章間に拍手をするか、しないか」という問いは成立しない。第1楽章が終わったところでいったんソリストは退出するのだから、拍手するしかない。ドヴォルザークやチャイコフスキーの時代にはさすがにそんなやり方は廃れていたかもしれないけど、でも拍手は入って当然という感覚だろう。
●それで思い出したけど、先月のデイヴィッド・ロバートソン指揮PMFオーケストラの東京公演では、吉本梨乃のソロによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第1楽章が終わったところで、パーッと拍手が出たのだった。熱い演奏の場合はああいうのもいいなと思う。

August 18, 2026

J1リーグ第2節 清水vsマリノス 見てないと勝つ

●見ると負ける。見ないと勝つ(こともある)。フットボールあるある。開幕戦を国立で現地観戦したら悪夢のような逆転負けをくらったが、第2節のアウェイ清水戦は外出している間にいつのまにか勝っていた。清水 0-1 マリノス。ゴールは井上太聖。後からDAZNで見たが(勝つとわかっている試合の安心感と来たら!)、意外にもマリノスがボールを保持する展開。ただ、パスの本数は多くなく、成功率も低め。これは相手の吉田孝行監督(元マリノスだ)がマリノス以上に手数をかけない強度重視のスタイルで、相対的にマリノス側がボールを持てた、ということなのかな。第1節の鹿島戦とずいぶん違った展開になったので、オーストラリア出身のスティーブ・コリカ新監督の目指すスタイルはまだよくわからないというのが正直なところ。4-2-3-1の布陣でディフェンスラインを高めに設定するが、ボールを保持するよりも縦に速く攻めたい、というと大島前監督とそんなに変わらないわけで、それもどうかと思うが、ただ攻撃時に「あ、これは練習でやってる形を出せたのかな」と感じる場面はいくつかあった。
●近年はマリノスから毎年いい選手が抜けていく。シーズンオフの補強は物足りなかったが、始まってみると新戦力が意外とチームにフィットしている。キーパーのルベン・ブランコが最大の補強か。ビッグセーブでチームを救った。中盤の底では知念慶が2戦連続先発で、柱になっている。ボランチの相棒が法政大在学中の松村晃助になったのは予想外。おかげで山根陸と喜田拓也はベンチに。16歳の三井寺眞は2戦連続の先発で、清水戦でも活躍していた。外国籍の選手が7人もいるが、ポジションを得ているのはキニョーネスとブランコだけ。ジョルディ・クルークスはベンチ要員になりつつあり、ほかの選手はベンチにも入っていない。強化が迷走している。
●35歳になった天野純が攻撃の柱になっているマリノスをだれが予想できたであろうか。控えのキーパーはまさかの飯倉大樹、40歳。背番号1の朴一圭の序列は3番手のようだ。

August 17, 2026

宇都宮美術館「カンディンスキー 世界は鳴りひびく」展

宇都宮美術館「カンディンスキー 世界は鳴りひびく」
●はっ、宇都宮美術館で「カンディンスキー 世界は鳴りひびく」なる企画展が開かれているではないの。9月3日まで。今月は繁忙期なのだが、お盆の時期ならなんとかなりそうだったので、慌てて宇都宮へ。前回、「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち」展で初めて足を運んで、その環境のすばらしさと展示の充実に驚いたのだが、今回はカンディンスキー。なぜそんな強力な企画展ができるかと思えば、これは日本のあちこちのコレクションを集めたものなのだとか。なるほど、そんな手が。宇都宮で始まり、その後、宮城県美術館、長野県立美術館と巡回する。東京には来ないわけだけど、もし来たら大混雑必至。宇都宮なら週末でも適度な人出で、ゆったりのびのびと鑑賞できる。すばらしい。

カンディンスキー 商人たちの到着
●抽象画以前のカンディンスキーをたくさん見ることができるのが吉。これは「商人たちの到着」(1905年/宮城県美術館蔵)。夢に見た光景が着想源らしいのだが、わらわらと無限に人が湧いて出てくる感じがいい。妙に幻想的で、想像力を刺激する。ちなみに撮影は不可。カンディンスキーは著作権が切れているので、代わりに拾い物または別の場所で自分が撮影した写真を貼る。

カンディンスキー 3本の菩提樹
●こちらは「3本の菩提樹」(1908年/アーティゾン美術館蔵)。これは日本橋のアーティゾン美術館でも見ているが、こうして別の美術館、別の文脈で見ることで、まったく新鮮な気持ちで見ることができる。ぱっと見、1本の木に見えるんだけど、どうなのかな。ほかのこんもりした部分も木として数えると、こんどは3本よりたくさんにも思える。抽象化へ一歩ずつ進んでいる感じ。

カンディンスキー 全体
●こちらは東京国立近代美術館でなんども見ている「全体」(1940)。カンディンスキーといわれてまっさきに思い出す作風。サーカス的、パレード的な楽しさと、原生生物っぽい生命たちの祝祭。「全体」であり総集編的ななにか。

宇都宮美術館 バス
●今回、ひとつ発見あり。宇都宮駅と宇都宮美術館を往復するバスはとても本数が少なくて、時間帯によっては1時間に1本もない(とくに週末は減る)。帰りなんて「このバスを逃したら次は1時間半後」みたいな状態だったので、かなりドキドキする。県外勢にはアクセスが厳しいわけだが、Yahoo!路線検索によると、駅から「ニュー富士見行き」のバスに乗って「帝京大学」で下車すると、そこから徒歩13分で宇都宮美術館に着くと出る。これを実際に往路で試してみた。もし歩道らしい歩道のないような歩くのが怖いタイプの車道だと困るなと案じていたが、ぜんぜんそんなことはなく、ふつうに歩ける道だった。ただし、行きはやや登りになる。徒歩13分を受け入れられるなら、これと美術館直行のバスを併用することで、バスの利便性はだいぶ高まる。よく考えたら東京都現代美術館だって、清澄白河駅から徒歩13分、木場駅からなら徒歩15分以上。あれと同じくらいの距離感ではある。

August 14, 2026

メルヴィル「白鯨」 その4 「イシュメールと呼んでくれ」

●(承前)しつこく続く、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」の話題。この小説を読んで途中から「あれれ?」となるのは、人称が一定しないため。アメリカ文学史上もっとも有名と言われる冒頭の一文は Call me Ishmael、「イシュメールと呼んでくれ」。ああ、この話はイシュメールの語りで進むんだな、と思う。捕鯨船に乗るより前は「わたし」というイシュメールの一人称で話が進んでいて、人食い人種の銛打ちクイークェグと出会ったりするところは冒険小説のはじまりみたいな雰囲気なんだけど、船に乗って出航したあたりから、イシュメールの姿がすーっと薄くなる。第26章でスターバック、第27章でスタッブ、第28章でエイハブ船長が紹介され、三人称視点みたいな描写になる。が、「わたし」という一人称はかろうじて残っている。で、第29章「エイハブ登場、つづいてスタッブ」になると、完全にエイハブ視点の三人称になる。章の題からして戯曲風。イシュメールが見ているはずのないことまで書かれるようになり、まったく型破り。
●しばらくして、鯨大百科事典みたいな記述の章になると、「わたし」が帰ってきたりもする。そこで鯨の分類学みたいな記述を長々と書いていたりして、このあたりの網羅的な書き方は検索エンジンの先取り風。
●第36章「後甲板」では、冒頭が

(エイハブ登場、つづいて全員)

となっていて、すっかり戯曲だ。さらに第37章「落日」では、ついにエイハブの一人称が出てきて、内面が語られる。この章にはエイハブしか出てこない。

連中はわしのことを狂人だと思っている──スターバックがそうだ。だが、わしは悪魔にとりつかれているだけだ。わしは二重に狂った狂人だ! わしの狂気は、おのれの狂気の正体を理解するときにのみおさまるたぐいの厄介な狂気だ!

これは岩波文庫の八木敏雄訳なんだけど、日本語訳だと一人称で登場人物を区別できるのが便利というか、大変というか。この訳ではイシュメールは「わたし」、エイハブは「わし」。
●それで、冒頭の一文だけど、この訳だとわりと立派な感じの語り口で、

わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。

と訳される。そう宣言しているにもかかわらず、物語内ではだれも彼に「イシュメール」と呼びかけない。例外的に、ピーレグ船長が署名を求めて名前を確認する場面で「イシュメール」が出てくるが、それ以外はすべて本人が自分について言及する状況でしかこの名は登場しないのだ。「信頼できない語り手」みたいな感じで、イシュメールは本当に船に乗っているのか、あるいは別のだれかの正体がイシュメールなのかと、つい疑ってしまう。

August 13, 2026

フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2026 フィナーレ 原田慶太楼指揮東京交響楽団

フェスタサマーミューザ 原田慶太楼 東京交響楽団
●11日はミューザ川崎へ。フェスタサマーミューザのフィナーレコンサートで、今年も原田慶太楼指揮東京交響楽団のコンビが登場。全席完売。祭りの締めくくりにふさわしいプログラムで、ファリャのオペラ「はかなき人生」からスペイン舞曲第1番、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番(久末航)、山本菜摘の「UTAGE~宴~」、チャイコフスキーの交響曲第5番。
●プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番でソリストを務めた久末航は、2025年エリザベート王妃国際音楽コンクールで日本人史上最高位の第2位を獲得した気鋭。今回、ようやく聴くことができた。プロコフィエフの音楽には多面的な要素が渾然一体となっているが、そのなかでもリリシズムを際立たせた演奏だったと思う。線は細めでグロテスクさやユーモアは控えめだが、洗練された技巧の持ち主。ソリスト・アンコールにリストの巡礼の年第1年「スイス」から 第9曲「ジュネーヴの鐘」。詩情豊か。リサイタルも聴いてみたくなる。
●山本菜摘の「UTAGE~宴~」は2024年に原田慶太楼指揮群響で初演された作品で、群馬がテーマになっている。八木節や草津節も用いられて、21世紀の外山雄三「ラプソディ」といった趣。書法は明快。川崎から群馬に想いを馳せる。
●原田慶太楼指揮によるチャイコフスキーの交響曲第5番は、以前、読響でも聴いた記憶がある。そのときも感心したのだが、今回もよい意味でケレン味たっぷり。大きなアッチェレランドからリタルダンドなど自在のテンポ設定で、すこぶるエモーショナル。雄弁でエネルギッシュ。この曲は原田の十八番なのかな。いずれ「コバケンのチャイ5」のように「ケイタロウのチャイ5」と呼ばれるようになるかもしれない。全楽章をアタッカでつなげた。
●カーテンコールで原田はマイクを持って登場。最終日ということもあり、音楽祭のグッズの宣伝をしつつ(昨年やったら売り切れたそう)、毎度のアンコールで山本直純「好きです かわさき 愛の街」。客席は手拍子。この曲、川崎では有名曲みたい。だれかが「これ、ゴミ収集車の曲だ」って言ってた。昭和感が濃厚な曲。久末とともに終演後はサイン会があるためか、カーテンコールを早めに切り上げる気配りマエストロ。サイン会は大盛況で、CDがたくさん売れたにちがいない。このサービス精神、ショーマンシップは立派。

August 12, 2026

ゾンビと私 その44 「映画を撮りたいゾンビの演劇」 岡田利規東京芸術劇場 舞台芸術部門芸術監督 就任第1作

映画を撮りたいゾンビの演劇●8日は東京芸術劇場のシアターイーストで岡田利規の作・演出による「映画を撮りたいゾンビの演劇」。なんと、演劇を観ることになった。以前にもお伝えしたように、東京芸術劇場の新たな芸術監督として、音楽部門では山田和樹が就任したわけだけど、もう一方の舞台芸術部門の芸術監督に就任したのが岡田利規。注目の就任第1作が「映画を撮りたいゾンビの演劇」となった。えっ、マジでゾンビなの……。これは観るしかないでしょ、2009年から不定期連載「ゾンビと私」を当欄で続ける者としては。コンサートホールには数えきれないほど足を運んだ東京芸術劇場だが、ここで演劇を観るのは初めて。出演は東宮綾音、百瀬葉、島田桃依、石川朝日、福原冠。
●で、これはタイトル通りの演劇なんすよ。「映画を撮りたいゾンビの演劇」なので、映画を撮りたいゾンビたちしか出てこない。出演者全員がゾンビ。ゾンビの映画監督やゾンビの助監督、ゾンビの役者、ゾンビの映画音楽作曲家たちが撮影現場に集まって、映画を撮ろうとしている。なぜか。それは人間が作った既存のゾンビ映画が、すべて人間側の一方的な視点から描かれたものばかりであって、そこにはゾンビ側の現実や感情がまったく描かれていないから。その非対称性に自覚的なゾンビが集まって、ゾンビによるゾンビのためのゾンビ映画を撮ろうとしているのだ。
●人間役に扮するゾンビ役者は不平を漏らす。「この人間メイクに3時間半かかった。でも人間がゾンビに扮するときは短時間の雑メイク」。これが非対称性だ。そうなのだ。われわれ人間はゾンビ役の演技など、どんなに類型的でも気にしないくせに、「はい、この人、人間役です」と言われて出てきたゾンビに対しては、本当に人間に見えるかどうか、その本物らしさについて容赦なく吟味するに決まっているのだ。現にワタシ自身、これまで長らくゾンビ連載をしてきたにもかかわらず、ゾンビ側の事情を一切気にかけてこなかった。ゾンビとは殺るか食われるかの存在であることを自明のものとして受け入れ、ヤツらからわれわれがどう見えているかは、なにひとつ真剣に考えてこなかった。大いに反省を促される点である。
●この演劇はゾンビと人間の間の非対称性をあぶりだすことで、私たちの社会にこれによく似た非対称性が至るところに潜んでいることを自覚させる。ジェンダー、人種、世代、組織内権力構造、企業と個人などなど。が、演劇内世界では焦点はゾンビにのみ当てられており、オフビートな笑いにあふれている。一般的なゾンビ映画のように物語からテーマが浮かんでくるタイプの話ではなく、ゾンビたちがずっとテーマを論じ続けているという直接的な形態がとられている。ゆえに、観客側が目にしたものの「その先」を受け取るのは案外と難しいとも感じるのだが、ゾンビ禍を新たな角度から見つめているという点で、きわめて示唆的。
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→不定期連載「ゾンビと私」

August 10, 2026

秋春制になったJリーグが開幕! 国立競技場でマリノスvs鹿島

Jリーグ開幕戦 2026 国立競技場
●こんなに屈辱的な負け方、近年、記憶にないってくらい悔しすぎる試合なんだけど、せっかく久々に現地観戦したので記しておく。7日はJリーグの開幕戦で、国立競技場でマリノスvs鹿島戦。今季からJリーグは世界標準のカレンダーに合わせて秋春制になった(秋春制の名に反して灼熱の8月上旬に開幕戦が行われるという皮肉……)。新しいJリーグがリスタートというわけで、Jリーグ開幕時のオリジナル10であり、ともに一度も降格していないマリノスvs鹿島の対戦が、金曜日に開催されたのだ。試合前のセレモニーは豪華絢爛。写真からもわかると思うけど、とんでもなく華々しい演出で「Jリーグ、やるな!」と思わせてくれた。しかも会場は全席完売。観客数はJ史上最多となる63960人。空いているかなと思ってバックスタンド上層の席をとったら、満席だったという驚き。
●これ、マリノスのホームゲームなんすよ。超絶ド派手なセレモニーでさんざん盛り上げて、観客数は史上最多。どう考えてもマリノスが絶対勝たないといけない試合じゃないすか。これだけやっちゃってるんだから。でも、相手は常勝軍団、鹿島。しかもマリノスがJリーグ発足時から苦手とする相手。どうしてこんなに厳しいカード組んだの、Jリーグは。いや、わかるよ、これが「Jリーグクラシック」だから。でも、今のマリノスの戦力では荷が重すぎるんだって。Jリーグは新しく生まれ変わったから「Jリーグは、進化する」のキャッチでポケモンとコラボして、各チームにパートナーポケモンまで設定してくれた。マリノスのポケモンはマリルリ。納得でしょ。鹿島はリザードン。みんな進化形のポケモンがあてがわれているんだけど、はっきり言って、マリノス、退化してますから! ずっと何年もかけて、地道に、着実に退化してるから!! あの輝かしかったアタッキングフットボール時代……。その栄光の戦士たちが今や鹿島のレオ・セアラ、鹿島のヤン・マテウスとして立ちはだかる。アンデルソン・ロペスも渡辺皓太もヴィッセル神戸にいる。みんな散り散りになって、今のマリノスはサンドバッグみたいに耐えて耐え抜いてロングボールで低確率のチャンスを狙うオールドスクールのサッカーに退化してる。だから、ウチのチームに進化したポケモンはふさわしくないんだ。マリノスはマリルリじゃなくて進化前のマリルでよかった。まあ、来季はJ2だと思ってるので、今じゃないと鹿島との「Jリーグクラシック」は成立しないとは思うんだけど、このお膳立てがあったからこそ、惨めな逆転負けをくらったんだと思う。
●というのも、キックオフからマリノスの選手たちは全身全霊で鹿島に立ち向かった。暑いのに飛ばしまくった。前半7分に16歳の新人、三井寺眞がゴールを決めて伝説を作り、レオ・セアラに決められて追いつかれるが、前半18分、後半13分と谷村海那がゴールを決めて3対1でリードした。2点目では三井寺が神技ヒールトラップで相手を抜いて会場をわかせた。絶対に勝つという前提で盛り上げられて、絶対に勝つという前提で選手たちが死力を尽くした。その結果、後半は次から次へと選手の足がつり出して、みんなバタバタと倒れていく。スティーブ・コリカ新監督が選手交代のカードを5枚全部使ったけど、その後も足がつる選手が続出。こうなったらもうサッカーにならない。鹿島に好きなように攻められてディフェンスは崩壊、後半36分、後半54分、後半57分と立て続けにゴールを奪われて大逆転。マリノス 3-4 鹿島。出口に向かうマリノスサポたちは虚無の表情だ。あえて、あのド派手なセレモニーを思い出して、虚しさに浸る。ワールドカップは祝祭だけど、リーグ戦はそうじゃない。あのセレモニー、やっぱり場違いだったんじゃないかな。負けたらそう思う。
●メモ。国立競技場は陸上競技場だけど、3階席なら傾斜があるので悪くない。スタグルは期待しない(脂っこいもの、くどそうなものばかりで食べたいものがない。ふつうの助六寿司とか売ってほしい)。トイレはたくさんある。満席になっても周囲に駅がたくさんあるので帰りは驚くほどスムーズ。このアクセスの良さは立派。誘導もしっかりしている。「MUFGスタジアム」の名が付いているが、「エム・ユー・エフ・ジー」はあまりに発声しづらいので、呼び名は「コクリツ」のままか。「MUFJ」とまちがえている人が多数いる。っていうか、三菱UFJ銀行なのに、なぜ「MUFJ」じゃなくて「MUFG」なんだろう。

August 7, 2026

メルヴィル「白鯨」 その3 なんのために鯨を捕まえるのか

油田
●(承前)前エントリーで記したように、メルヴィルの「白鯨」では船員が鯨肉のステーキを食べるシーンが出てくるものの、捕鯨は食べるために行っているのではない。主目的は油だ。当時の鯨油はランプに使う油として、あるいは工業用の潤滑油などに使われていた。鯨は19世紀のエネルギー資源、産業資源であって、登場人物たちはいわば油田を掘り当てるために海洋を旅している(といっても、船長エイハブの真の目的はただ白鯨と対決することのみだが)。
●第98章「収納と清掃」には、鯨を解体し油を樽に詰めるまでの工程が描かれている。鯨の脂身を船上で煮出し、溶け出た油を樽に入れ、船倉に格納する。これはたいへんな大仕事だろう。(以下、八木敏雄訳/岩波文庫の下巻 より)

 油は、お湯割りのパンチなみにまだ温かいうちに六バレルの大樽に移されるが、船は夜中にも横ゆれ縦ゆれをくりかえすので、そのせいか、大樽はクルクル回転したり、転覆したり、ときには危険きわまりないことに、すべりやすい甲板上をまるで地すべりのように集団滑走することもあり、これは結局のところ、人間の手をかりて抑止するよりほかはない。
ある日、甲板は血と油の洪水で、かの神聖なる後甲板すら巨大な鯨の頭の山なす残骸で冒瀆される。錆でよごれた大樽が、甲板上に醸造工場の中庭よろしく散乱している。舷牆は製油かまどから出た煙ですっかりすすけ、あたりをあるきまわる水夫たちは油にまみれ、船そのものが巨大なレヴィヤタンさながらで、そのうえ船のいたるところが喧騒で耳を聾さんばかり。

●「白鯨」のなかには、海上で捕鯨船同士がたまたま出会う場面がいくつかある。そういうときはボートを出して、相手の船を訪問したりする。第81章「ピークオッド号、処女号にあう」では、ブレーメンの捕鯨船ユングフラウ号と出会う。先方はボートを下ろし、船長が油差しと油缶を手にしてやってくる。もう油が一滴もないから恵んでくれというのだ。「鯨油をとりにきた船が、鯨の本場で、油を借りにくるというのがいかに奇妙であろうとも(中略)そのようなことが実際におこるのである」。こういうのは、捕鯨船ジョークというか、捕鯨船あるあるネタだったのだろう。(→つづく

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飯尾洋一(Yoichi Iio)

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