●20日は新国立劇場でロッシーニのオペラ「ウィリアム・テル」(新制作)初日。日本初の原語舞台上演。序曲だけはあまりに有名だが、長大なグランドオペラとしての全貌を初めて目にすることに。長い作品だとは聞いていたが、吟味の上のカットも施され、上演時間は4時間35分ほど(休憩30分×2回込み)。初めて見る新鮮さもあってか、体感的には意外と長さを感じず。ヤニス・コッコスの演出、美術、衣裳。大野和士指揮東京フィル。
●まず、冒頭の序曲が驚き。コンサートではまるで小交響曲のようなスペクタクルとして鳴り響くが、ピットで演奏されるとぜんぜん印象が違っていて、これは軽やかな幕開けの音楽なのだと実感。序曲の間にすでに演技が始まる方式。ストーリーは重い。ハプスブルク家の圧政下でスイスの民衆が自由を求めて戦う物語であり、そのスイスの英雄が弓の名手であるウィリアム・テル(ゲジム・ミシュケタ)。抑圧する側のボス、悪代官役が総督ジェスレル(妻屋秀和)。つまり、これは「スター・ウォーズ」でいえば、ジェダイの騎士と帝国軍の戦いで、テルとジェスレルの争いが中心となって物語が動くのかなと思いきや、そうじゃないんすよ! 軸となるのはスイス側の長老の息子アルノルド(ルネ・バルベラ)。彼はひそかにハプスブルク家の皇女マティルド(オルガ・ペレチャッコ)と愛し合っているというロマンスが設定されているのだ。しかしアルノルドは父親を悪代官側に殺されてしまう。愛をとるか、父の敵を討つか。そんな葛藤が描かれる。でも、全体のハイライトシーンは、やっぱり息子の頭に載ったリンゴをテルが弓で射る場面になる(ちなみに弓といってもアーチェリーではなくクロスボウのほうだ)。まあ、テルの話だけだとロマンス要素が皆無になってしまうので、オペラとしてはアルノルドとマティルドに焦点を当てるしかないのか。実際、音楽面ではこのふたりが肝。複焦点的なドラマになっていて、そこがぎこちないともいえるし、おもしろいともいえる。
●ロッシーニの音楽は聴きどころ満載。このオペラ、合唱が大活躍する。強力な合唱団を持つ新国立劇場にふさわしい。バレエのシーンもふんだんにあって、娯楽性が高い。重唱もたくさん。歌手陣ではアルノルド役ルネ・バルベラの甘く軽やかな声が印象的。ペレチャッコのマティルドは格調高い。ゲジム・ミシュケタのテルも英雄らしい堂々たるテル。遠目だとテルとアルノルドが似ていて最初は少し混乱した。テルの息子ジェミの安井陽子が秀逸。少年にしか見えない。オーケストラは力まず、清爽な響き。
●以下、演出内容に触れる。ヤニス・コッコスの演出はこの物語を現代に通じるものとして描く。モダンで暗いトーンの抽象化された舞台で、ハプスブルク家の軍人たちは黒ヘルメットを被り、容赦のない暴力性を誇示する。本来のグランドオペラでは風光明媚なスイスを描いたパノラマや民族衣装のダンスが見物だったのかもしれないが、ここにあるのは現実の悲劇の反映だ。実際、だれもが知るテルのエピソードは残忍そのものではある。息子の頭にリンゴを載せて、それを父に射させるのだから。ここには人間性のかけらもない。第3幕のバレエシーンでは総督ジェスレルがスイスの民衆に踊りを強要するわけだが、支配者である男のダンサーたちが、被支配者である怯えた女のダンサーたちを相手にする。現代ならもっと直接的な描写もあり得るのだろうけど、これでも十分に心が凍り付く。最後に映像で投影されるのは、爆撃を受けたと思しき廃墟だった……。一方で、ロッシーニの音楽はどこまでもロッシーニで、恐怖や憎悪を描く場面ですら優美さを失わないのだが。
●あっ、そうそう、有名な序曲のおしまいの「スイス軍の行進」、あれは本編に出てこないんすよ! 知ってた? あのギャロップで華やかな幕切れになったりしない。その代わり、おしまいの場面では本当に崇高な歓喜の音楽が奏でられる。やっぱりロッシーニって、こうだよなーって思う。フォースの暗黒面に堕ちない。
新国立劇場 ロッシーニ「ウィリアム・テル」(新制作)
中国vsニッポン@ワールドカップ2026 アジア最終予選
●18日、東京オペラシティで東京シティ・フィルの記者発表会へ。2025/26シーズンラインナップが発表された。その様子はまた後日改めて詳しく書くとして、ひとまず年間パンフレット(PDF)にリンク。
●で、19日夜はW杯アジア最終予選のアウェイ中国戦。先日のインドネシア戦から中三日となるアウェイ2連戦。森保監督は例によって大幅に選手を入れ替えてきた。GK:鈴木彩艶-DF:瀬古歩夢、板倉、町田-MF:遠藤、田中碧-伊東(→橋岡大樹)、久保(→前田大然)、南野(→鎌田)、中村敬斗(→三笘)-FW:小川航基(→古橋)。
●ホームでは7対0で勝った相手だが、アウェイとなるとまったく別の展開になる。序盤からニッポンはボールを持っても、ビルドアップがうまくいかない。選手の流動性が足りないのか、ウィングバックにボールを出しても、そこからボールを運ぶ手段がなく、下げるだけ……といった場面が多く、20分過ぎまでシュートなし。イバンコビッチ監督率いる中国は4バック、3ボランチの形で非常に組織的な守備。なんだかボールの出しどころがないな……と思っていたが、どうやら中国はニッポン対策として両サイドのタッチラインを引き直してピッチを狭くしていた模様。道理でいくらボールを横に動かしてもディフェンスが素早く付いてくるはずだ。なんという策士。
●が、そのおかげなのか、なんと前半にコーナーキックから2点もゴールを獲れてしまった。39分、久保のキックにマークを外した小川が頭でビシッと合わせて先制点。さらに前半終了間際の51分、伊東のキックにニアで町田がそらしてファーでフリーになった板倉がヘディングで2点目。これは練習通りの形か。あまりコーナーキックで点を獲るタイプのチームではないと思っていたが、よもやの2連発。それはまあ、ピッチが狭ければコーナーキックの威力と精度は増すわけで、まさに「策士策に溺れる」。
●しかし後半3分、ニッポンのディフェンスが中国に詰め切れず、リンリャンミンが1点を返す。これで一気に中国の勢いが増すところだったが、後半9分、久保とのコンビから伊東が抜け出てペナルティエリア右から逆サイドに狙いすましたクロスを送って、フリーの小川がゴール。中国 1対3 ニッポン。
●中国はコーナーキックの場面で、キーパー鈴木彩艶を囲むように選手が密集する謎作戦。満員電車作戦と名付けたい。これ、もし効果あるならみんなマネすると思うんだけど、どうなんでしょね。おもしろそうなんだけど。
●森保監督の超攻撃的布陣、攻めてるときはいいけど、守りに回ると両ウイングバックにフォワード調の選手を使う意味がなくなる……というのはだれもが気にしているところだけど、後半途中から伊東に代わって守備的な橋岡大樹が入った。攻撃力は落ちるけど、チームは落ち着く。で、そうなると右ウイングバックだけが下がり目になるので、ほとんど4バックみたいな形になるんすよね。この形は汎用性が高いかも?
●インドネシアがホームでサウジアラビアを破った(!)。インドネシアのオランダ化は成功している。バーレーンとオーストラリアは引分け。グループCはニッポンが勝点16で独走し、残りのすべての国が勝点7と6の間にひしめく大混戦になった。
インドネシアvsニッポン@ワールドカップ2026 アジア最終予選
●15日、N響定期の後、帰宅してからW杯アジア最終予選のインドネシアvsニッポン戦をDAZNの見逃し配信で。今晩、アウェイ中国戦があるので今さらではあるが、振り返っておこう。ちなみに今回、DAZNは無料配信を敢行、テレビ放送はなし。はたしてこれでいいのかどうか……。DAZNの無料配信もFanZoneというオンラインチャットで交流しながらゲストといっしょに観戦するタイプの別チャンネルだったようで、ストレスがたまりそう。最初、まちがえてそちらにつないだのだが、有料配信に切り替えたらふつうの中継でほっとした。DAZNはFanZoneを推したいみたいなのだが、もしあれを強制的に見せられるのだったらもう契約しない。
●で、試合だが、ワールドカップ出場に向けてオランダ系帰化選手をずらりとそろえたインドネシアは壮観。11人中9人が帰化選手だったかな。オランダのAZでプレイ経験のある菅原由勢は「帰化選手はほぼ全員知っている」そうなので、オランダの国内リーグ選抜みたいなチームなのだろう。ぱっと見、アジアというよりヨーロッパのチーム。なかにはオランダU21代表経験のある選手もいるとか。今の時代、これはなんの不思議もない話ではある。先のワールドカップでオランダ代表がスリナム系の選手ばかりで白人選手がずいぶん少ないなと思ったが、その一方でインドネシア代表がオランダ系の選手ばかりになっていたとは。
●試合結果は一方的で、インドネシア 0対4 ニッポン。序盤は楽な展開ではなく、雨と重い芝に苦労した模様。スピード感のあるパス回しができない。インドネシアを後押しするファンの声援も独特で、大したチャンスでなくてもドッとスタンドが明るく湧きあがって、やりにくそう。インドネシアがニッポンのミスを突いて2度ほど先制点を奪うチャンスがあった。鈴木彩艶のファインセーブあり。シン・テヨン監督率いるインドネシアは、自分たちがボールを持てばしっかりとパスをつないでくるチーム。それがニッポンにはむしろ助かったところがあって、意外とオープンな展開になる。前半35分、鎌田が小川に出したパスを相手ディフェンダーがオウンゴール、続いて40分に左からの折り返しを走り込んだ南野がダイレクトでシュート、左ポストに当たってゴール、後半4分、相手のキーパーのミスから守田がゴール。
●圧巻は後半24分、途中出場の菅原のゴール。右サイドを抜け出て、ゴール前に侵入、クロスを入れると見せかけて、キーパーの肩口を抜けるシュートを豪快に蹴り込んだ。あそこでニアの上を狙って、あんなに強いシュートを打てるとは。今、森保監督が採用している3バックにはサイドバックというポジションがないので、菅原や長友には出番がなかなか回ってこない。3バックの右ウィングバックとなると、菅原は堂安や伊東と同じポジションを争うことになってしまう。もっともこのポジションで本職なのは菅原のほうだが。
●ほとんどオランダの選手だらけのチームを相手に、ニッポンが格上のチームとして戦っていることに不思議な気分になった。GK:鈴木彩艶-DF:橋岡大樹、板倉、町田-MF:遠藤、守田-堂安(→菅原)、南野(→前田大然)、鎌田(→旗手)、三笘(→伊東)-FW:小川航基(→大橋祐紀)。負傷の谷口の代役は橋岡。大橋祐紀はイングランド2部のブラックバーンで大活躍中、28歳にして代表デビュー。
アンドレス・オロスコ・エストラーダ指揮NHK交響楽団のショスタコーヴィチ他
●15日はNHKホールでアンドレス・オロスコ・エストラーダ指揮N響。ワーグナーの「タンホイザー」序曲、ヴァインベルクのトランペット協奏曲(ラインホルト・フリードリヒ)、ショスタコーヴィチの交響曲第5番というプログラム。一曲目のワーグナーが少し意外な選曲。ヴァインベルクのトランペット協奏曲ではラインホルト・フリードリヒが無双状態。吹いていないときは指揮をするように軽く手を動かしリズムをとるなど、余裕の吹きっぷり。この曲、初めて聴いたけど、他のヴァインベルク作品を聴いたときと同様、ショスタコーヴィチとの共通性を強く感じる。ついジェネリック・ショスタコーヴィチのように感じてしまいがち。ヴァインベルクがショスタコーヴィチから影響を受けたように、ショスタコーヴィチもまたヴァインベルクから影響を受けているというのだが……。終楽章のファンファーレでメンデルスゾーンの「結婚行進曲」やビゼーの「カルメン」などが引用されて楽しい曲ではある。ソリストのポジティブなパーソナリティも大いに貢献していたのでは。アンコールにソリスト編曲の「さくらさくら」。サービス満点。
●後半のショスタコーヴィチの交響曲第5番がとてもいい。速めのテンポを基調として、音楽に躍動感があり停滞しない。思わせぶりなところがないのが吉。第1楽章のおしまい部分、リズミカルに脈打っていて、舞踊性すら感じる。第3楽章のラルゴ、これを遅くて粘る音楽、深い祈りの音楽として立派な名演を聴かせる人も少なくないけど、オロスコ・エストラーダはぜんぜん違っていて、颯爽として強靭。終楽章、冒頭こそ予想外に遅いテンポ設定だったが、すぐにスピード感を取り戻して、ひりひりするような緊迫感のあるフィナーレに。終結部も間延びせず。弦楽器の全力強奏が輝かしい。
●だいぶ好みのわかれるショスタコーヴィチだとは思ったが、拍手がいったん止みかけた後、熱心なお客さんたちが続けてくれて、次第にまた拍手が高まりオロスコ・エストラーダのソロ・カーテンコールになった。オロスコ・エストラーダ、コロンビア出身ではあるけどウィーンで勉強して、たくさんウィーンで活躍している。いずれニューイヤー・コンサートに呼ばれるかも?
「アイヴズを聴く 自国アメリカを変奏した男」(J.ピーター バークホルダー著)
●今年発売された音楽書のなかで、これほど待ち望んでいた一冊はなかった。「アイヴズを聴く 自国アメリカを変奏した男」(J.ピーター バークホルダー著/奥田恵二訳/アルテスパブリッシング)。これまで日本語で読めるアイヴズ本がほとんどなかったところに、ついに登場した決定的な評伝であり作品論でもある。堂々544ページにわたる大著なので、お値段もそこそこする。以前から、この本の翻訳が進んでいることは耳にしていたのだが、これだけの分量となるとさまざまな過程で難航してもおかしくないわけで、なんとかアイヴズ生誕150年に間に合ってくれて本当によかった。
●いつもなら本は読んでから紹介するのだが、これはそうそう読み切れないので、まだごく一部を読んだところ。この一冊は頭から読むよりは、読みたいところから読むのがいいと思う。たとえば、偉大な作品、「コンコード・ソナタ」から読む。なんと、この一曲のために第10章「アメリカ文学」の章まるまる46ページが割かれているのだ。ピアノ・ソナタ一曲に46ページっすよ! この章が「アメリカ文学」と題されているように、「コンコード・ソナタ」が文学由来の作品だということは、もっと意識されるべきことかもしれない。著者は言う。
「コンコード・ソナタ」は、究極的にはロマン的な衝動を反映した近代音楽作品ということになる。それはメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」や、リストの「ダンテ・ソナタ」および「ファウスト交響曲」、リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」および「ドン・キホーテ」その他、数えきれぬほどの19世紀の器楽作品と同様、文学作品に触発された作品であり、ロマン的なピアノ書法──即興的な夢幻性から単純な歌謡性にいたる様式、緊張度の高い半音階主義から明瞭な機能和声にいたる調性感、深刻な発言から軽妙な遊び感覚にいたる表現性を含み込んだ書法──を大幅に採りいれた作品である。
この一文を読んだだけでも、「コンコード・ソナタ」の聴き方が変わってこないだろうか。
●あと、まっさきに読んだのは保険会社のくだり。アイヴズといえば「不協和音のために飢えるのはまっぴら」と言って、保険会社を設立して生計を立てたとよく言われる。その保険会社が際立った成功を収めたことはあちこちで目にしていたが、もう少し詳しい事情を知りたいと思っていたのだ。保険会社というか、保険代理店で保険を売っていたわけだが、アイヴズはもともと保険代理店の社員にすぎなかった。ところが勤務先でスキャンダルが発覚し、この会社が解散することになり、アイヴズは同僚と一緒に新たに会社を立ち上げた。この会社が急成長を遂げてアイヴズは財を成した。しかし、アイヴズ自身は決して自ら保険の販売を手がけなかったという。その代わり、保険額を決めるシステマティックな方法をパンフレットにまとめ、研修資料を作り、保険の代理人養成のための学校を初めて開いた。アイヴズが導入した方式によって「代理店の保険販売業務は完全に様変わりした」というのだから、保険業界へのインパクトは相当に大きかったようだ。そして、その原動力は経済的に成功したいという欲求ではなく、保険により世の家庭は守られるべきという崇高な理念にもとづく理想主義だったという点は、作曲家としてのアイヴズの姿と重なっているように思える。
アンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィルのマーラー5
●12日はサントリーホールでアンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィル。プログラムはプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(五嶋みどり)とマーラーの交響曲第5番。演奏会の冒頭でフロシャウアー楽団長がネルソンスと通訳を伴って登場し、小澤征爾追悼のメッセージを述べた。1966年にザルツブルク音楽祭で初めて共演し、ウィーン国立歌劇場では音楽監督を務めたマエストロへの思いを込めて、これよりバッハのアリアを演奏するので、演奏後は拍手を控えて黙祷を捧げたいとの旨。通称「G線上のアリア」が演奏され、その後、拍手なしで全員起立して黙祷。これがまさにウィーン・フィルという弦の響きで、聴き惚れてしまった。本編のプロコフィエフでは五嶋みどりが入神のソロ。全身を使って祈るように音楽を紡ぎ出す。瞑想的な終結部がオーケストラと一体となって絶美。ソリストアンコールとして、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番より第1曲プレリュードを軽快に。プロコフィエフの協奏曲のスケルツォ楽章とつながっているような気がする、無窮動風のところが。
●後半、マーラーの交響曲第5番はネルソンスのマーラーでもあり、ウィーン・フィルのマーラーでもあり。冒頭からテンポが遅く一歩一歩踏みしめるように進む。先日のソヒエフのブルックナーほどではないにしても、重く巨大な音楽。この曲、大昔にマゼールとウィーン・フィルが来日公演で演奏して、そのFM放送のエアチェック音源が自分の刷り込みになってしまっているのだが、あの華麗さとはまったく違って、ネルソンスが描き出すのは苦悩に満ち、運命に抗う魂のマーラー。第1楽章と第2楽章はもともと闘争的な音楽だが、第3楽章も舞踊性は希薄で重力強め。アダージェットは官能的な愛の音楽というよりは、むしろ儚い喪失の音楽に聞こえる。それでも終楽章は荘厳壮麗なフィナーレになる。嵐のような激情の奔流をウィーン・フィルの豊麗な響きが上書きして、輝かしい結末に至る。大喝采とカーテンコールの後、ネルソンスのソロ・カーテンコールに。
●先日の川崎公演では指揮台に丸椅子があったが、この日は指揮台の脇に置かれていた。使用されず。ネルソンスがスリムであることにもう驚かない。会場ではウィーン・フィル来日記念グッズが販売されていた。トートバッグとかTシャツとか。どれどれ、フロシャウアー楽団長のアクスタはあるかな~(ありません)。
濱田芳通指揮アントネッロのバッハ ロ短調ミサ
●11日は東京オペラシティで濱田芳通指揮アントネッロ。バッハのミサ曲ロ短調。合唱は17名かな、そのうちソリストが鈴木美登里、中山美紀、中川詩歩、中嶋俊晴、新田壮人、彌勒忠史、田尻健、坂下忠弘、松井永太郎。かつて聴いたことのないような躍動するバッハ。全編にわたって音楽の喜びにあふれていた。
●冒頭キリエから、前へ前へと進む推進力がみなぎっている。響きは清澄で、温かい。グロリアのひりひりするような熱さ(Cum Sancto Spiritu...の高揚感)、クレドが柔らかく慈しみにあふれた表情で始まって、次第に加速して熱を帯びていく様子、アニュス・デイの絶唱(彌勒忠史)など、聴きどころ満載。とくにアニュス・デイは儚げな祈りの音楽ではなく、起伏に富んだドラマティックな歌唱で、こういう強靭な表現が可能なのかと目から鱗。オペラ的というか。おしまいのDona nobis pacemで、もう終わるのかと寂しくなる。全体が体感的に短く感じた。通奏低音の駆動力の高さ。リュートとハープの撥弦楽器が効いている。コルノ・ダ・カッチャをはじめ、管のソロも充実。
●今年はロ短調ミサを2回も聴けた。やっぱりこの曲はいいなー。
山田和樹指揮NHK交響楽団のルーセル、ラヴェル、ドビュッシー他
●10日はNHKホールで山田和樹指揮N響。前半にルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」組曲第1番、バルトークのピアノ協奏曲第3番(フランチェスコ・ピエモンテージ)、後半にラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」、ドビュッシーの管弦楽のための「映像」より「イベリア」。協奏曲を別とすれば、舞踊的要素満載のフランス音楽プログラム。一曲目のルーセル、冒頭から覇気がみなぎっている。音楽が生きているというか。この曲、以前に山田和樹指揮日フィルで第1番と第2番を聴いているし、スイス・ロマンド管弦楽団を振った録音もあって十八番なのか。しかし組曲第1番だけというのは珍しい。
●バルトークではフランチェスコ・ピエモンテージがすばらしい。バルトークの音楽が怜悧でモダンであるばかりでなく、情感豊かで歌心にあふれた音楽でもあることを伝えてくれる。オーケストラも雄弁。ソリストアンコールにシューベルトの即興曲変ト長調作品90-3。しみじみ。
●ラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」を聴いて、「ラ・ヴァルス」とどっちが先なんだ問題に思い当たる人は多いと思う。曲調から察せられるように、「優雅」が先で「ラ・ヴァルス」が後。両曲はどちらもウィーンのワルツに触発されているが着想源が違っていて、「優雅で感傷的なワルツ」はシューベルトのワルツ、「ラ・ヴァルス」はヨハン・シュトラウス2世のようなウィンナワルツ。なのだが、両曲、部分的にすごく似てるじゃないっすか。だから、自分の勝手な解釈としては、これらは一連のワルツシリーズで、ヒーロー戦隊ものにたとえると「優雅」全8曲がレギュラー回の第1回から第8回で、「ラ・ヴァルス」がラスボス戦を描く最終回拡大版スペシャル。だから「ラ・ヴァルス」にはカタストロフがあるけど、「優雅」にはない。
●おしまいの「イベリア」も精彩に富みカラフル。N響の柔軟性と積極性を感じる。定期二日目ということで、カーテンコールの際に花束贈呈があった。男性楽員が渡していて、よいなと思った。