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June 9, 2026

高崎市美術館と高崎市タワー美術館

高崎市美術館
●6日、せっかく高崎まで遠征したのだから高崎芸術劇場&群響の「トスカ」の前に、高崎市美術館高崎市タワー美術館に足を運んだ。というか、毎回、高崎遠征は芸術劇場と美術館をセットにしている。両美術館とも駅のすぐそばでアクセスは抜群によい。とくに高崎市美術館は建築物としても独特の魅力があって、ほかにはない居心地の良さがある。
●高崎市美術館での展示は「版画集ぜんぶ見せます!」と「特集展示 小林正」。版画集はかなり強力なラインナップで、フェルナン・レジェの「サーカス」48点、ジョルジュ・ブラックの「もしも僕が死んだら」17点、シャガール「ポエム」24点、ピカソ「闘牛」26点など、ひとつの版画集をまるごと見せるというコンセプト。自前の収蔵作品だけでこれだけできるのは立派。しかも、週末でも空いていて快適。座る場所もたくさんあるので、のんびり過ごせる。ぜいたくな場所である。

フェルナン・レジェ「サーカス」
●一点、惜しかったのは全点撮影が禁止だったことで、コレクション展では珍しいかも。代わりによそのサイトからダウンロードした、フェルナン・レジェ「サーカス」の一点を上に置いておく(レジェの著作権は切れている)。

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●同時開催の「特集展示 小林正」も見ごたえあり。高崎市出身の画家、小林正(1949~)の絵画23点が展示され、こちらは撮影可。一点選ぶなら、上の「我ら」(1990)。家族や街をテーマにした作品が多いのだが、時期によって作風はかなり変わる。
●もう一か所の高崎市タワー美術館は、駅から芸術劇場に向かう途中にあって、こちらはビルのなかの小ぢんまりとした展示。現在の展示は「物語る日本画」。これもよかったのだが、写真がないのですぐに記憶が薄れる。写真は「そこに行った」というライフログとして欲しいんすよね。

June 8, 2026

高崎芸術劇場 GTシンフォニック・コンサート vol.2 オペラ「トスカ」

高崎芸術劇場
●6日は高崎遠征。群馬交響楽団と高崎芸術劇場の主催によるGTシンフォニック・コンサートvol.2でプッチーニのオペラ「トスカ」(セミ・ステージ形式)。沼尻竜典の指揮で、高崎を皮切りに、神奈川フィル、名古屋フィルでも同様に「トスカ」が上演される。歌手陣は佐藤康子のトスカ、シュテファン・ポップのカヴァラドッシ、上江隼人のスカルピア、妻屋秀和のアンジェロッティ他。合唱にGTシンフォニック・コンサート・プロフェッショナル・シンガーズ、藤岡市立小野小学校合唱部(児童合唱)。舞台構成は粟國淳。高崎芸術劇場はステージがとても広いので、前方に演技用のスペースを設置して、ここでしっかりと演技する。テーブルなど、大道具、小道具も一通りあり。背景にスクリーンが設置され、主に舞台設定となる場面を静止画で映し出す方式。照明にも一工夫あり、全体としてほとんど舞台上演と変わらない密度で物語を楽しめる形態になっていたと思う。奇をてらった趣向はなく、初めて観る人にも安心の「トスカ」。
●群響を聴くのはかなり久しぶり。8年ぶりかな。今、どこのオーケストラも技術的水準が高まっていると感じるが、群響も例外ではなく、綿密な音作りで、繊細な表現から豪快な咆哮まで雄弁に音のドラマを作りあげる。大空間だが、かなりパワフルで、たたみかける場面は迫力満点。プッチーニのオペラはオーケストラも主役のひとりだと改めて実感。オーケストレーションが魅力なので。歌手陣は好演。なかでもシュテファン・ポップの声が強烈。抜けるような明るい声。子どもたちの合唱のひたむきさに心打たれる。
●自分は名作オペラであってもストーリーを本気で観る派なので、毎回「トスカ」のたびに同じようなことを言うけど、トスカって本当に嫌な女だと思うんすよね。嫉妬深さに加えて、聡明さを欠いているところが耐えがたい。ある意味、事件の張本人。いちばん嫌なのは画家に眼の色を塗り直せと要求するところで、歌手なのに他人の芸術への敬意が足りない。自己中心的で、短絡的で、その場の瞬間的な感情だけで物事を判断する。本当ならカヴァラドッシやアンジェロッティよりも、スカルピアの側にいるはずだった人間なんじゃないかと思うことがある。トスカとスカルピアのそれぞれに信仰告白をさせているところにも、作者からの「似た者同士」的な扱いを感じる。

June 5, 2026

ステファヌ・ドゥネーヴ指揮NHK交響楽団のフランス音楽プログラム

ステファヌ・ドゥネーヴ NHK交響楽団
●4日はサントリーホールでステファヌ・ドゥネーヴ指揮N響。爽やかな初夏を思わせるフランス音楽名曲集で、オネゲルの「夏の牧歌」、ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」(ガエル・アルケーズ)、イベールの「寄港地」、ドビュッシーの「海」。こういった季節感のあるプログラムは大好物。オネゲルのホルンやイベールのオーボエなど、管楽器の聴かせどころも満載でご馳走感たっぷり。オネゲルの「夏の牧歌」ほど清涼感のある名曲もない。夏の高原そのもの。明るいけど、明るいだけではなく陰もある。ベルリオーズの「夏の夜」はメゾ・ソプラノのガエル・アルケーズが温かみのある声を披露。この曲、ベルリオーズにしては「こじらせ」系成分が薄くて、ひたむきな愛の音楽を味わえる。
●後半のイベールは痛快。色彩感豊かで清爽な響き。ドビュッシー「海」も同様にカラフルではあったのだが、ドゥネーヴが気迫のこもった指揮で、熱気にあふれたドビュッシーになった。おしまいは精緻なバランス感よりも情熱が勝って、すごい高揚感に。楽員退出後、いったん拍手が止みかけたが、そこから次第に高まって、ドゥネーヴのソロ・カーテンコールに。マエストロはうれしそう。愛すべきキャラクターが伝わってくる。
●今回もゲストコンサートマスターにジュリアン・ズルマン。

June 4, 2026

東京都美術館 アンドリュー・ワイエス展

東京都美術館 アンドリュー・ワイエス展 「ケネットの集会所」
●東京都美術館開館100周年記念のアンドリュー・ワイエス展へ。20世紀アメリカの具象絵画。アメリカ北東部の田舎の風景、あるいは人物が、どれも彩度の低い色調で描かれ、多くの作品では外の光の明るさと室内の陰が強いコントラストをもたらす。豊かな田園風景ではなく、自然環境の厳しさ、暮らしの質素さが伝わってきて、どういうわけか自分の内側には存在しないはずの郷愁を呼び起こす。写真は一部撮影可。上は「ケネットの集会所」(1980)。

東京都美術館 アンドリュー・ワイエス展 「灯台」
●こちらは「灯台」(1983)。ワイエスが所有していたメイン州の小さな島にある灯台の内側を描いている。これで灯台と言われても。ていうか、ワンちゃんだし、主役は。全体に厳しさを感じる作品が多いんだけど、この作品のように80年代後半から90年代になると、少し和らいだ雰囲気も漂う。

東京都美術館 アンドリュー・ワイエス展 「納屋の猫たち」
●もうひとつ動物テーマで「納屋の猫たち」(1993)。隣人の納屋を描いている。猫を探しても見つからない。代わりに左下に猫のエサ入れがある。奥で荷車を押しているのは隣の奥さん。猫はねずみ退治のために外で飼っていたというから、今は仕事中なのかもしれない、人と同じように。こんなふうに室内から外の明るい光を目にする構図が多い。
●全体として目立つテーマは、不在、孤独、痕跡。「その状態に至る前の過去」に思いを巡らせてしまう。

June 3, 2026

映画「スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー」 もうひとつの父子の物語

●映画館で「スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー」を観る。めちゃくちゃおもしろくて、びっくりした。結論はもう出ている。これが「スター・ウォーズ」の正史だ。「スター・ウォーズ」7~9はとっくに自分のなかでは存在しなかったことになっているのだが、このマンダロリアンの映画を「スター・ウォーズ」と銘打ったのは正解だと思う。ルークもダース・ベイダーもいないし、ジェダイも出てこないし、ジョン・ウィリアムズのテーマ曲もないが、まぎれもなく「スター・ウォーズ」。これでよかったのだ。
●「マンダロリアン」はもともとDisney+で配信されているドラマシリーズで、シーズン1からシーズン3までが公開されている。ダース・ベイダーが倒れた銀河帝国崩壊後の時代に、孤独な戦士マンダロリアン(マンドー)が民族の掟を背負って生き抜く様が描かれている。もともと「スター・ウォーズ」とは神話を時代劇/西部劇の文法で描いた物語だと思うが、「マンダロリアン」もまさにそう。ただ、ルーク・スカイウォーカーのような若者の成長の物語ではない。マンダロリアンは孤独なオジサンなのだ。ダークなテイストの物語になる。が、そこにグローグーというヨーダと同じ種族の幼児が加わったことで、「マンダロリアン」は父子の物語になった。時代劇の観点から言えば「子連れ狼」のスペースオペラ版。かつての「スター・ウォーズ」が子の立場から描いた父子の物語なら、「マンダロリアン」は父の立場から描いた育児の物語である。マンドーの戦いは、シングルファーザーの育児以外のなにものでもない。グローグーの愛らしさの背後にはつねにマンドーの苦悩や葛藤が潜んでいる。父性は「マンダロリアン」の最重要テーマだろう。
●今回の映画「スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー」に関して言えば、「スター・ウォーズ」シリーズではおなじみの裏社会の支配者ジャバ・ザ・ハットの息子に焦点を当てたことで、ぐっとストーリーに味わいが出たと思う。マンドーはあの息子の姿を見て、まちがいなくグローグーの将来について思いを馳せたはず。ディズニーっぽさは正直、ある。そこは許容するしかない。あと、過去の「スター・ウォーズ」へのオマージュが今までの映画ではぜんぜんうまくいっていないと思っていたのだが、この作品では見事に成功している。あの怪物たちと来たら……。結局のところ、大事なのは幹となるストーリーなのかな。

June 2, 2026

日本代表vsアイスランド代表 親善試合

●31日はニッポンvsアイスランド代表戦を中継で。国立競技場で開催されたワールドカップ直前の壮行試合。記憶で語るけど、毎回、壮行試合はパッとしない内容になる。今回もそうだった。選手たちはみんなワールドカップのメンバーに選ばれて、怪我だけはしたくないという気持ちがどこかにあるだろうし、相手の側には大きなモチベーションがない。両者とも強度が落ちる。プレスは緩く、球際はソフト。だから、試合内容はあまり大事ではない。森保監督は先発メンバー11人を全員交代して、交代枠を使い切った。後半42分に途中出場の小川のゴールが決まって1対0。今回限りの招集で吉田麻也が呼ばれ、先発して10分だけで交代。両チームの選手が花道を作った。まるで引退試合のように。
●むしろ、意味のあったのはワールドカップ本大会と同じレギュレーションで試合をしたことで、これにはかなり驚いた。まず前後半の途中で飲水タイム的なものが入る。飲水ならいいのだが、各3分もあるので、事実上のCMタイムだ。長い……。これはアディショナルタイムに追加されるので、前後半は最低でも各48分であり、実際には常時50分を超えることになる。近年、FIFAのルールはどんどん妙な方向に走っている。プレイタイムを長くするのはいいが、試合を長くしてほしいわけではない。時間稼ぎがイヤなだけなのだ。最近、一試合の時間が長すぎると思う。
●おまけに「スローインの5秒制限」「交代選手は10秒以内に退出」など、細かい規則が増えた。選手交代で下がる選手が審判員が交代ボードを掲げてから10秒以内にピッチから出ないと、交代で入る選手が1分経過してからプレーが止まるまで入れない。つまり、最低でも1分は一人少ない状態で戦う。アイスランドはこの罰則で数的不利の状態で失点したのだ。ニッポンは新ルールを生かしたともいえるが、ファンが見たいのはこういった試合なのだろうか。
●で、ニッポンのメンバー選考についてなんだけど、やっぱりコンディションが万全ではない選手がたくさん入ってしまったな、という印象。長友を呼んだことに賛否があるのも当然で(守田を呼んでほしかった的な声)、三笘と南野をけがで呼べなかった一方、遠藤航や冨安健洋みたいに90分フルパワーでプレイできるかどうかわからない選手がいて、ほかにもコンディション面で心配な選手がいる。元気いっぱいの若い選手が少なく、なんだか人数が足りていない感じがあるのだ。この感じ、ザッケローニのときに似てる。かつてない選手層の厚さだと思っていたのに、いざ蓋を開けてみたら選手層が薄い。ただ、ほとんど代表でプレイしていない塩貝健人や後藤啓介が入ったのは英断だったかもしれない。若いラッキーボーイが出てこないと、とても勝ち進める気がしない。
●メンバーを書いておこう。先発はGK:鈴木彩艶-DF:冨安、吉田(本試合限定)、板倉-MF:遠藤航、田中碧-堂安、中村敬斗-久保、伊東-FW:上田。交代出場はGK:早川友基、DF:菅原、谷口、長友、渡辺剛、瀬古、伊藤洋輝、MF:佐野海舟、FW:後藤啓介、小川航基、塩貝健人。出場なしは大迫敬介、鈴木淳之介、鈴木唯人、前田大然。チーム事情で鎌田大地が不参加。鎌田は27日にクリスタル・パレスの一員としてUEFAヨーロッパカンファレンスリーグ(欧州クラブの第3層の大会)の決勝にフル出場して優勝している。

June 1, 2026

アンドリス・ポーガ指揮NHK交響楽団のヴァスクス、ショスタコーヴィチ

アンドリス・ポーガ NHK交響楽団
●29日はNHKホールでアンドリス・ポーガ指揮N響。ゲストコンサートマスターにジュリアン・ズルマン。ポーガを聴くのはかなり久しぶり。プログラムは前半がヴァスクス「感謝の歌」(2026)日本初演(NHK交響楽団、ラトビア国立交響楽団、ミュンヘン室内管弦楽団、オーストラリア室内管弦楽団の共同委嘱作品)、後半がショスタコーヴィチの交響曲第4番。前後半でがらりとカラーが変わる。ヴァスクス「感謝の歌」は、弦楽器のみによる清冽な音楽。とても聴きやすい曲。祈るような曲想で、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」を連想せずにはいられない。
●この流れで聴くと、ショスタコーヴィチの交響曲第4番は苛烈な音楽であり、とてつもない大作で、実際にすごい音圧ではあるのだが、ポーガは見通しのよい整ったサウンドをN響から引き出す。決して豪放ではなく、緻密な構築物としてのショスタコーヴィチ。この曲には過去の作品への仄めかしがあちこちに潜んでいる。おしまいの部分のチェレスタ、マーラー「大地の歌」の「告別」風とよく言われるが、その前のコントラバスの脈打つような反復にチャイコフスキーの「悲愴」を思い出す。で、順番としてはおかしいわけだけど、同じショスタコーヴィチの交響曲第5番も連想する。姉妹編と呼ぶにはあまりに作品の方向性が違うけど、野心満々の第4番にある何物かを強制的に古典的枠組みに押し込んで鋳造したら第5番ができあがるのかも、と。
●週末の日本代表の試合については、また明日にでも。

May 29, 2026

アーシュラ・K・ル=グウィンの「暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて」

●「ゲド戦記」の作者として知られる作家、ル=グウィンほど聡明な書き手はめったにいないと思うのだが、数年前に刊行された生前最後のエッセイ集「暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて ル=グウィンのエッセイ」(アーシュラ・K・ル=グウィン/谷垣暁美訳/河出書房新社)を読んでみたら、この人は80代になってもキレッキレの知性を保っていたことがよくわかった。81歳になって始めたブログの記事がもとになったエッセイ集で、老いることや文学や社会について、あるいは飼い猫の話などが自由に綴られている。書名はハーバード大学の同窓会から送られてきた「余暇にはなにをしていますか」というアンケートへの回答に由来する。80代にとって余暇とは? ル=グウィンの回答は「暇なんかないわ、大切なことを考えるのに忙しくて」だった。
●ル=グウィンのもとには、大勢の読者からの手紙が届く。それはそうだろう。そこには作者への質問がたくさんある。なかには作品の意味を問うものもある。それに対してル=グウィンの言っていることが、とてもいいなと思うので、以下に引用したい。

 この本の意味は何ですか? この本のこの出来事の意味は? この物語の意味は? 何を意味しているのか教えてください。
 でも、それは私の仕事じゃないの。あなたの仕事よ。
 私は自分の物語が自分にとって何を意味するのか、少なくとも部分的には知っている。同じ物語が、あなたにとってはまったく違うものを意味することは大いにありうる。そして、1970年にその物語を書いたときに、それが私にとって意味していたことは、1990年にそれが私にとって意味していたこととも、2011年の今、意味していることとも、まったく異なるかもしれない。(中略)

 芸術(アート)における意味は、科学における意味と同じではない。言葉が理解されている限り、熱力学第2法則の意味は、誰がいつ、どこで読んでも変わらない。『ハックルベリー・フィンの冒険』の意味は変わる。(中略)

 それが自分にとって何を意味するのか見定め難いときに、書いた私に訊きたくなる気持ちはわからなくもない。だけど訊かないでほしい。書評家や評論家やブロガーや研究者の書いたものを読めばいい。彼らは皆、本が自分にとって意味することについて書く。そうすることで、本を説明して、ほかの読者にとって役に立つ、適切な共通の理解を打ち立てようと努める。それが彼らの仕事であり、彼らの一部は非常にうまくやってのけている。

●これは文学についての話だけど、音楽もまさにそうだし、芸術とはみんなそんなものだろう。作者に意味を尋ねてはいけないし、作者は読み手の解釈を正しいともまちがいとも言う立場にはない。作者のなかに一義的に定められた答えがあるわけではなく、作者のなかでも意味は変化し続ける。芸術の大前提だ。以前、バルガス・ジョサ(リョサ)の「街と犬たち」(都会と犬ども)について、カイヨワが作者に対して話をまったくわかっていないと断じたエピソードを紹介したが、一脈通ずる話でもある。
●ちなみに音楽についての話題だと、ル=グウィンはジョン・ルーサー・アダムズがお気に入りなんだとか。有名なジョン・アダムズじゃないほうの作曲家。環境とか自然との共生がキーワードになるのかな。まあ、わかる話ではある。

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制作者

飯尾洋一(Yoichi Iio)

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