
●26日は東京文化会館小ホールで「東京・春・音楽祭」の東京春祭ディスカヴァリー・シリーズvol.12 ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス。リトアニアの作曲家チュルリョーニス(1875~1911)の作品を聴く貴重な機会。というか、チュルリョーニスはまず画家として知られていると思う。まもなく国立西洋美術館で「チュルリョーニス展 内なる星図」が開催されるのだが、チュルリョーニスはわずか35年の生涯で絵画と音楽の両方の分野に作品を残した芸術家であり、展覧会に連動して「東京・春・音楽」で音楽もとりあげられることになった模様。
●といっても、この演奏会、かなり不思議なプログラムでタイトルにチュルリョーニスと掲げられているが、チュルリョーニス作品は前半にしか演奏されず(しかもどちらも編曲作品)、後半に出てくる3人の作曲家、バルトゥリス、マルティナイティス、マルティナイティーテがチュルリョーニスとどういった関係にあるのか、ぜんぜんわからない。曲目解説を見てもどういう人が言及がなく、当日の布川由美子氏のレクチャーでも触れられないままだった。たぶん、3人とも現代リトアニアの作曲家だと思うのだが、詳細は不明。演奏はセルゲイ・クリロフ指揮のリトアニア室内管弦楽団。リトアニア室内管弦楽団というと、サウリュス・ソンデツキスの指揮で録音を耳にしているが、こうしてライブで聴ける機会が訪れるとは。
●そんなわけで、前半はチュルリョーニス(チェピンスキス編)弦楽四重奏曲ハ短調(弦楽合奏版)、チュルリョーニス(ソンデツキス編)5つの前奏曲、後半はバルトゥリス「わたしはシューベルトが好き」(クリロフのヴァイオリン・ソロ)、マルティナイティス「楽園の鳥たち」、マルティナイティーテ「魂の風景」より「春」。チュルリョーニスの作風は大きくいえばロマン派、国民楽派風で、もしもシベリウスやグリーグ、ドヴォルザークがリトアニアに生まれていたらこんな曲を書いたのでは、と思わせるもの。民謡風の楽想もありつつ、独自のポエジーも感じられる。後半の3人は現代の作曲家とはいえ、調性も拍もあって聴きやすいスタイル。ポスト・ミニマル風の短いフレーズの反復と、スマートさとローカル色の融合が基調か。さらにアンコールがあって、指揮者が作曲家と曲名を言ってくれたのだが、聴きとれなかったので公式サイトの情報をそのまま載せると、Jonas TamulionisのTOCCATA DIA VOLESCA
FOR STRING ORCHESTRA、J. NaujalisのSvajone。日本語表記がないと日本では決して広まらないので、表記を定めてほしいところ。
●セルゲイ・クリロフ指揮リトアニア室内管弦楽団の演奏はたいへんすばらしい。会場が小ホールあることを考慮しても、小編成なのに音に厚みがある。野太い音がするというか。日本の楽団にはないタイプの強い香りを感じる。表現意欲も旺盛で、演奏力によって作品価値を一段高めることのできる団体だと感じた。
東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ チュルリョーニス
東京・春・音楽祭 ヤノフスキ指揮N響のシェーンベルク「グレの歌」

●25日は東京文化会館で「東京・春・音楽祭」のシェーンベルク「グレの歌」。これまで同音楽祭のワーグナー・シリーズで名演を聴かせてくれたマレク・ヤノフスキ指揮N響のコンビが、今年はシェーンベルクの記念碑的大作「グレの歌」に出演。これをもってヤノフスキの同音楽祭への出演は最後になるそう。明確にワーグナーの延長上にある後期ロマン派スタイルの作品だけに、一貫性のある締めくくりになった。超巨大編成、舞台上はぎっしり。歌手陣はヴァルデマール王にデイヴィッド・バット・フィリップ、トーヴェにカミラ・ニールンド、農夫にミヒャエル・クプファー=ラデツキー、山鳩にオッカ・フォン・デア・ダメラウ(当初予定から変更)、道化師クラウスにトーマス・エベンシュタイン、語り手にアドリアン・エレート。後半から登場する合唱は東京オペラシンガーズ。休憩あり、字幕あり。
●歌手陣は高水準。ヴァルデマール王は巨大編成の咆哮と戦わなければならないので、基本的には人間の非力さを「聞こえない」ことで表現するものだと思っていたが、デイヴィッド・バット・フィリップはむしろよく聞こえると思った。2019年に「グレの歌」が3公演もかぶった奇跡の年があったが(カンブルラン&読響、大野&都響、ノット&東響)、その「グレグレグレの歌」イヤーの記憶からすると、この王はかなり強く、タフ。ニールンドも文句なし。ダメラウの山鳩も立派。この役はお得かも。
●主役はやはりヤノフスキ&N響で、ワーグナー同様の厳格なスタイル。濃厚なロマンに耽溺することなく、きびきびと音楽が前に進む。豪放磊落な音の洪水ではなく、クライマックスまできちんと制御された音響設計で、明瞭壮麗。87歳なのでさすがに足元は心配になったけど、年齢からすると信じられないほど矍鑠としている。
●で、改めて感じるのは「グレの歌」という規格外の作品が持つ多面性だろうか。イェンス・ペーター・ヤコブセンの原詩にもとづき、ヴァルデマール王とトーヴェの悲恋(?)が描かれる。とくに第1部は音楽的にも物語的にも拡張版ワーグナーであり、「トリスタンとイゾルデ エクステンディッド・エディション1913」を聴いている感覚になるのだが、王とトーヴェは「大地の歌」のように交互にしか登場せず、第2部でトーヴェが王妃によって殺されたことがわかる。王は嘆き、神を呪う。身も蓋もないリアリズムでいえば、王は犠牲者のようにふるまってるけど、王妃のほうこそ犠牲者なんじゃないの、って気もするわけだが、王と王妃の関係は原詩でも描かれていない模様。王妃には王妃の正義があり、王妃の物語があったんじゃないかと思うんうすよねー。
●それで、第3部になると王はもう死んでいて、家臣といっしょに棺桶からよみがえって、暴れる。ここはもう「トリスタンとイゾルデ」的な世界観を超越している。亡霊たちの狩り、ワイルド・ハントだ。これは現代的な解釈ではゾンビの襲来と呼んでいい。でも、どうして王が亡くなったのかは原詩にも描かれていないと思う。どう考えても王にワーグナー的な救済は訪れなさそうだが、音楽的には「見よ、太陽を」で眩暈がするほど輝かしい結末を迎える。これをどう受け止めればいいのか。日が昇り、亡霊たちは消える。個人の救済の物語などには一切の関心を示さず、ただ太陽は大地を照らし、絶対的な存在としての自然がそこにある。そんなアンチ・ロマンに着地するのが「グレの歌」のおもしろさなんだと思う。
J1百年構想リーグ、マリノスが川崎フロンターレ相手に大量得点
●昨季に続いて今季もマリノスは茨の道で、びっくりするほどよく負ける。基本、どの試合も負けるのだ。が、先週末の川崎フロンターレ戦ではまさかの大量得点で今季2勝目をゲット。国立競技場の試合で川崎ホームの扱いだったが、川崎0対5マリノスで完勝。実は開始早々に川崎がいきなりゴールを決めたのだが、VARの結果、オフサイドに。マリノスは前半に谷村海那がゴールを決め、後半は天野純、天野純、ユーリ・アラウージョ、ジェイソン・キニョーネスと続くゴールラッシュ。天野は遠野大弥の負傷退場を受けて後半から入ったにもかかわらず、2ゴール1アシストの無双ぶり。
●で、0対5という結果を見ると、よほど川崎が酷かったのかと思うが、DAZNで観戦したかぎりではそうでもない。たしかに運動量やハードワークの面でマリノスが一歩勝っていたとは思うが、内容的にはどうかな。試合終了後の中継で紹介されたゴール期待値(膨大な統計をもとに算出される)は、小数点以下を丸めると川崎2対マリノス3。これが実感に近い。確率的なばらつきによって0対5になったのであって、サッカーではこういうことがたびたびあるものだと思う。
●ちなみにボール保持率は川崎が62%、マリノスは38%。やはり今のマリノスはボールを持たないと勝つ。パス本数はわずか259本、成功率も76%しかない(川崎は569本で83%)。ボールは持たない、つながない。早めに前に蹴って、走って、バトルする。悔しいが、このスタイルが勝利への近道になっている。
TOPPANホールで北村陽のチェロ・リサイタル

●20日はTOPPANホールでチェロの北村陽。前半にサーリアホの「ララバイ~無伴奏チェロのための」(2018)、ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタ ニ短調、クレンゲルのチェロとピアノのためのスケルツォ、後半にナディア・ブーランジェの3つの小品、プーランクのチェロ・ソナタという意欲的なプログラム。ピアノは薗田奈緒子。一昨年の同ホールのランチタイムコンサートで北村はリゲティ、三善晃、コダーイらによる無伴奏リサイタルを聴かせてくれたが、冒頭のサーリアホはその続編のよう。全編にわたり、尋常ではない切れ味の鋭さに加えて、パッションが豊か。2004年生まれということだけど、エネルギーにあふれていて、濃密。今だからこそできる音楽を聴いた感。ピアノとの息もぴったり。
●前半のおしまいが重いショスタコーヴィチ、後半のおしまいが軽妙なプーランクというプログラムは、なんだか逆みたいにも思えたのだが、聴けば納得。プーランクの終楽章は軽妙なだけではなく、荘厳だったり、壮麗だったり、いろんな要素が短い音楽のなかに渾然一体となっていて、締めくくりにふさわしい。この楽章の冒頭部分(おしまいでドラマティックに回帰する)が、すごくカッコいい(ブリテンの無伴奏チェロ組曲第1番冒頭に似てるなと思ったのだが、帰ってから録音を聴いてみたらそんなに似てなかった……)。ナディア・ブーランジェを聴けたのも収穫。リリではなくナディエのほう。
●アンコールに祈りのような「鳥の歌」。これで終わりと思ったが、さらにロストロポーヴィチの「ユモレスク」という無窮動風の技巧的小品を爆発的に。本編に劣らず鮮烈で、圧倒されるばかり。
ピエタリ・インキネン指揮都響のプロコフィエフほか

●19日はサントリーホールでピエタリ・インキネン指揮都響。日フィル時代になんども聴いたインキネンが、都響に客演。だいぶカラーの異なるオーケストラへの客演だが、都響にぴったりのプログラム。ラヴェル「ラ・ヴァルス」、サン=サーンスのピアノ協奏曲第4番(キット・アームストロング)、プロコフィエフの交響曲第3番。1曲目以外はあまりライブでは聴けない曲なのでありがたい。「ラ・ヴァルス」はダークサイド成分控えめで、さっそうと。サン=サーンスのピアノ協奏曲第4番では、ソリストのキット・アームストロングが恐るべきヴィルトゥオジティを発揮。唖然とするほどのテクニック。これまでリサイタルではなんどか聴いているが、コンチェルトは初めて。映える。ただ、自分が期待する作品像とは少し違ってて、香り立つというよりも華麗さに傾く。ソリスト・アンコールでは、左手だけでフーガ風の曲を弾いて、これも鮮やかな離れ技。曲はサン=サーンスの「左手のための6つの練習曲」第2番「フーガのように」。作曲者の難しそうな人柄を感じるタイプの曲。
●後半のプロコフィエフが圧巻。交響曲第3番は、有名な第5番よりもずっと粗削りでおもしろい。この曲の自分のなかでの愛称は、第1楽章冒頭の反復的なモチーフにちなんで「たまごクラブ・ひよこクラブ」。かわいい+グロテスクが実現。プロコフィエフの音楽が持つ運動性、抒情性、ユーモア、皮肉、暴力性などが、雑然と同居しているのが楽しい。強烈な曲だけど、あまり刺々しくならないのはインキネンゆえか。少し上品。終楽章の終わり方に、あっけにとられる。
SOMPO美術館 FACE展2026

●SOMPO美術館が毎年開催している公募展、FACE展2026へ(~3/29)。場所がいいので、毎年のように足を運んでいる。例年に比べると、抽象画がかなり減ったか。グランプリをはじめ各受賞作にもその傾向が強かった気がする。以下、とくにいいなと思った作品。

●優秀賞に選ばれていた「幾千年」(黒澤匠)。蛍光灯自体が製造中止になりつつある過去の遺物であるわけだけど、さらにこの二重環タイプの照明器具は、ずっと前にシーリングタイプに置き換わっていて、ノスタルジックな存在になっている。なんだか超然として、一種の遺構みたいな趣。「幾千年」という題が効いている。審査員コメントではUFOを想起させるという指摘も。そうなのかな。

●こちらは「終わりなき旅」(林寿朗)。異世界というか、ファンタジー小説の一場面のようでもあり。未知の生態系があり、未知の文明がある。反射的に連想したのは、クリストファー・プリーストの「夢幻諸島から」。あるいはリアリズム寄りだと、バルガス=リョサの「世界終末戦争」に出てくる辺境の宗教的理想郷。

●ぱっと見て地図とわかるが、タイトルは「ガザ地区」(原多夫志)。重いテーマと、洗練された表現。碁盤の目のような整然とした道ではなく、太い幹線道路から細い路地まで複雑に入り組んでおり、そこに人々の営みと歴史の積み重ねを感じさせる。

●「くまの眠り」(本多愛実)。ほんわかとした「かわいい」タッチだが、これはどういう状況なのか。ベッドに気持ちよさそうに横たわるくまちゃんがいて、くまちゃんの持ち物らしきぬいぐるがあって、そのすぐそばに巨人が佇んでおり、灰皿には火のついたタバコ。すでにタバコは3本目。くまちゃんの目覚めを待っているのだろうか。灰皿のそばに置かれたオイルライターはタフガイを連想させる。物騒かもしれないし、そうでないかもしれない。この巨人はだれだ?
●合わせて、前回受賞者4名による招待展示「絵画のゆくえ2026」も開催中。
野村萬斎 with OEK ファリャ「恋は魔術師」

●17日はサントリーホールでオーケストラ・アンサンブル金沢の東京定期公演。今回は「野村萬斎 with OEK ファリャ 恋は魔術師」と題され、狂言師の野村萬斎が演出、出演。野村萬斎はOEKの本拠地、石川県立音楽堂のアーティスティック・クリエイティブ・ディレクターを務めている(石川県立音楽堂にはコンサートホールと並んで能楽堂がある)。指揮はOEKパーマネント・コンダクターの松井慶太。プログラムは前半に徳山美奈子の交響的素描「石川」~加賀と能登の歌による~より「海の男」、シューマン(青島広志編)「蝶々」、後半にファリャのバレエ音楽「恋は魔術師」。「能・狂言×日本舞踊×フラメンコ×オーケストラ」と銘打たれていて、いったいどんな舞台になるのか、さっぱり予想がつかなかったが、驚きの完成度。こういった和洋の芸術の融合を目指したものとしては出色の出来で、すべてにおいて洗練された舞台に仕上がっていた。客席にはOEKのお客さんだけではなく、ふだんオーケストラを聴かない方も多数いた模様だが、どちらのお客さんも満足できたのでは。
●オーケストラは舞台後方に陣取り、前方中央には「サントリーホールにはないので、歌舞伎座から借りてきた」(野村萬斎のトークあり)という所作台が敷かれている。前半のシューマン「蝶々」から舞踊付きで、原曲に物語性はないが、自由な発想から組み立てられたストーリーにもとづいて舞が踊られる。編曲はOEKのコンパクトな編成に応じたものだが、ほどよくあでやかで、無理がなく、見事なもの。ファリャの「恋は魔術師」では歌唱も入る(メゾソプラノ:秋本悠希)。作品に充満する熱く濃密なアンダルシア的世界観と和の世界がどう結びつくのかと思ったら、まったく境目のない調和ぶりで驚嘆。これって幽霊譚なんすよね。浮気者の旦那の亡霊に悩まされて、ジプシー美女に亡霊を誘惑してもらう。幽霊なら狂言の得意技、ということで野村萬斎が亡き夫の亡霊役で場内を沸かせる。カンデーラ役に中村壱太郎。ところどころ、所作台を足でドンと強く打ち鳴らして付ける強いアクセントが、ファリャの音楽をいっそう引き立てる。「火祭りの踊り」で大いに盛り上がる。基礎理解がなさすぎて舞についてはなにも言語化できないのが悔しいが、すこぶる華やか。松井慶太指揮のオーケストラはキレのある明るいサウンドで、見通しがよく雄弁、管楽器のソロも巧み。ファリャの作品世界へと引き込んでくれる。カーテンコールもふだんのクラシックの公演とは違って、演出がついているのが新鮮で、カーテンコールからそのままアンコールの「火祭りの踊り」になだれ込む趣向が冴えている。客席からも「火祭りの踊り」のリズムで手拍子。
●会場内で野村萬斎のアクスタ等のグッズ販売あり。本人トークで宣伝されたこともあって、休憩中に飛ぶように売れていた。
●この日もOEKは18時30分開演。もうみんな慣れた。早く始まって早く終わる。これでいいのかも。
東京都美術館「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」

●東京都美術館の「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」展へ(~4/12)。スウェーデン国立美術館の協力で、約80点からなる19世紀末スウェーデン美術の展覧会。とくべつ有名な人がいるわけではないと思うのだが、行ってみると意外と盛況。上の絵はカール・ラーション「カードゲームの支度」(1901)。公式サイトでメインでフィーチャーされているのがこの絵なんだけど、ひとつの典型というか、スウェーデンらしい豊かな田舎暮らしを温かいタッチで描いている。こういったタイプが人気なのかな。

●こちらはアンデシュ・ソーン「故郷の調べ」(1920)。今回の展示から伝わるスウェーデン絵画の大雑把な流れとして、まずアカデミックな画壇が確立された後、パリに学んだ次世代が新たな潮流を生み出し、やがて「スウェーデンらしさ」を追い求める民族主義的作風が台頭する、という感じ。音楽の世界とよく似ていて、やっぱりこの時代は国民楽派みたいなものが美術の世界でもあるんだなと思う。これはその典型だろう。伝統的な民族衣装を身につけ、リュートを奏でながら故郷の調べを歌う女性。

●この絵はまちがいなく以前に見たことがあるぞ。アーンシュト・ヨーセフソン「水の精(ネッケン)」(1882)。その場では思い出せなかったが、帰宅してから、SOMPO美術館の「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」にも展示されていたことに気づく。セイレーンなど、水の中に男を引きずり込む水の精にはたくさんのバリエーションがあるが、ネッケンの場合はヴァイオリンを弾いているところが特徴的。水中でヴァイオリンを弾くのは無理だと思うが、水の精は物理を超越する。

●こちらはニルス・クルーゲル「夜の訪れ」(1904)。ゴッホみたいな夜空。夜の訪れをこんな鮮やかな色調で表現するのが、いかにも緯度の高い国という感じがする。光あふれる夜。光が馬の体にも降り注いでいる。坂本繁二郎が描く馬を思い出すのはワタシだけではないと思う。
