●ちょうど高松宮殿下記念世界文化賞の音楽部門受賞者にヘルベルト・ブロムシュテットが選ばれたというニュースがあったが、「音楽こそわが天命 ヘルベルト・ブロムシュテット自伝」(アルテスパブリッシング)の増補新版が刊行されている。聞き手はユリア・スピノーラ。これは2018年に刊行された本に、新たに2025年春に行ったインタビューを第9章「究極の決定はほかでくだされる」として追加したもの。
●増補新版で追加された第9章は20ページほど。かつてスウェーデンではブルックナーがなかなか受け入れてもらえなかったことや(スウェーデン放送交響楽団にデビューした際、なにを提案してもいいがブルックナーだけはダメだと言われたエピソードなど)、特別な思い入れを持つベルワルドの交響曲第3番をウィーン・フィルとベルリン・フィルで指揮した際の比較がおもしろかった。
●初出時の当欄での紹介はこちら。過去の失敗なども率直に語っており、必読の一冊だと思う。
「音楽こそわが天命 ヘルベルト・ブロムシュテット自伝」[増補新版]
映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」
●昨日に続いて映画の話題をもうひとつ。「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(フィル・ロード&クリストファー・ミラー監督)をようやく見た。なにしろアンディ・ウィアーの原作小説があまりに傑作で、あの盛りだくさんの内容をどうやって2時間半強の映画に収めるのかと思っていたが、手際よく完成度の高い映画に仕立てられていて感心。主人公が宇宙船のなかで目を覚ますところから始まるのは原作と同じ。長期の昏睡状態から目覚めて、自分がなぜ地球からはるか離れた場所を飛んでいるのかも思い出せないが、次第に記憶がよみがえってくる。全人類の危機に対処するために片道旅行の恒星間宇宙船へと旅立ったのだった……。
●で、これが小説の場合はなにも知らずに読んでいて、あるところでまさかの出来事があって心底びっくりしたのだが、映画の場合はそうもいかないわけで、あらゆる紹介記事でその先の展開が書かれている。ていうか、予告編で盛大にネタバレしてるし。でも知らないで見たほうが感激すると思うんすよねー。
●原作に比べると、「サイエンス」がだいぶ軽くなって、「ドラマ」がしっかり残ったという印象。これはやむを得ないところで、映画内では主人公の思考経路を延々と独白させるわけにはいかない。映画は観てわかるものしか表現できない。一方、小説ではイメージがぼんやりしていたあれこれの造形をはっきりと伝えられるのは映画の強み。宇宙船とか、あれやこれやを目にできて感激。宇宙船が回転して人口重力を作る様子とかも、やっぱり目で見ると熱い(と、肝心なことはぼかす、無駄な抵抗と知りながら)。
映画「Michael マイケル」
●遅ればせながら、映画館で「Michael マイケル」(アントワン・フークア監督)。ほぼ予備知識なしに見たけど、目と耳がスクリーンにくぎづけ。同時代のスーパースターとはいえ、マイケル・ジャクソンの音楽に興味を持ったことのない自分が、これほど感激できるとは。
●てっきりマイケル・ジャクソンの光と影、栄光と転落を描いたものかと思いきや、そうではなく、少年時代からスーパースターへとのぼりつめる「前半部分」でできている。だから映画のなかではハッピーエンドで終わるんだけど、これは納得で、映画の真の主役は音楽とダンス。次から次へと登場するマイケルの名作(さすがに懐かしい)。どれも色褪せていない。少年時代から並外れた歌唱を聴かせ、ダンスはキレッキレ。すげえな……と思ったところでハッと気がつく。これ、ドキュメンタリーじゃなくて映画だった。じゃあ、歌ってるのはだれ? 踊ってるのはだれ? 役者が演じているとはとても思えない。マイケルそのものじゃん!
●観終わってから知ったんだけど、マイケル役はジャファー・ジャクソン。マイケルの甥(ジャーメイン・ジャクソンの息子)で、ミュージシャンでありダンサー。完全にマイケルが憑依している。これはジャファーが歌ってるの? それともマイケルの歌をテクノロジーの力を借りて被せているの? 途中で顔が変わるのはどうやってるの。子役がちゃんと成長しているのはなぜ。スタジアムでのライブ・シーンが本物に見えるんだけど、どこまでCGなの? すべてがあまりに本物らしくて、狐につままれた気分。
アクセスログとAIの足跡

●ふだん、このサイトのアクセスログを見ることはないが、思うところがあって久々に生ログを眺めてみた。現状、このサイト全体で一日あたり平均1万1千から1万2千ページのアクセスがある。昨年の11月に遅まきながらサイトをセキュア化したら(httpからhttpsにした。遅すぎ)、アクセス数が即座に回復し、今も増加傾向にある。それまではhttpであるがゆえに年々Googleからのランク付けが下がっていたようなのだが、httpsにしたら戻ったらしい。
●もっとも、一日に1万2千ページ読まれているといっても、本日の新しい記事をその日のうちに読んでくれる人は推定10分の1程度で、大半のアクセスは過去記事に対してのもの。毎月、Googleからアクセス上位ページのランキングが送られてくるが、決まって上位に入る記事がいくつかあって、そのなかには大昔の記事も含まれる。そういった上位記事は累計するとけっこうなアクセス数になるだろう。XなどSNS上の人気投稿は数時間から一日くらいで爆発的に広まって数日で落ち着くのに対して、ブログの記事は何か月とか何年とか経ったときに「あ、これ、実はバズってた」「こっちはだれも読んでなかった」とわかる長距離砲みたいな感じだ。アーカイブめがけて遠投している気分で、どこまで飛んだかは時間が経たないとわからない。
●で、どうしてアクセスログを見たかといえば、理由はAIだ。あるとき、Geminiに質問をしたら、回答の典拠として自分のブログが出てきた。少し間抜けな状況だが、AIが読みに来てくれているのは歓迎すべきこと。じゃあ、その足跡がアクセスログに残ってるんじゃないの?と思い、確かめてみたのだ。
●たった一日のログを見ただけなんだけど、AIはいっぱい来てた。たとえば、ChatGPTからやってくるクローラーには3種類あって、それぞれ異なるUser-Agent名を残していく。各々の名前と役割はこうなっている(ChatGPT本人談)。
GPTBot:AIモデルの学習・改善に利用する可能性のあるコンテンツ収集
OAI-SearchBot ChatGPT:Search用の検索インデックス作成
ChatGPT-User:ユーザーの質問・操作に応じて、その場でページを取得
この3種類とも1日分のログファイルに含まれていた。AIの学習用にはGPTBot、ユーザーからの質問に答えるためにその都度検索してくるのはChatGPT-User、みたいに役割分担がでてきているのがおもしろい。これがClaudeの場合だと、以下のようになる。
ClaudeBot:モデル開発・学習に利用されうるWebコンテンツの収集
Claude-User Claude:ユーザーの質問に応じて、その場でWebページを取得
こちらもしっかり来ていた。AIたちがウチのどの記事を学習したか/検索したかを知ることができるのは興味深いが、公開記事なんだから来てくれて当たり前ではある。検索エンジンと同じだ。
●ただ、困った面もある。ユーザーは検索エンジンで見つけた情報については、参照元のサイトを見に来てくれるが、AIで知った事柄については参照元にほぼ来ない。AIとユーザー間の会話だけで完結する。AIが強力になればなるほど、ユーザーが参照元にアクセスする機会は減るだろう。コンテンツ発信者側からすると、発信する意義が感じられなくなったり、ビジネスとして成立しなくなったりする。だが、AIの集合知とはもともと人間の発信者から学習してできあがっているわけで、その学習元がやせ細っていくという状況はAIが自分で自分の首を絞めているようにも思える。今後、発信者側はどうするのが正解か……ということを当のChatGPTと話し合ったのであった。
鈴木愛美 小井土文哉 谷昂登 Concerto Festival
●2日は東京オペラシティで「鈴木愛美 小井土文哉 谷昂登 Concerto Festival」。3人の若手ピアニストが登場して、一夜で3曲の協奏曲を弾くという演奏会。前半は小井土文哉がラヴェルのピアノ協奏曲、谷昂登がシューマンのピアノ協奏曲、後半は鈴木愛美がベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾いて、沼尻竜典指揮東響と共演。3人ともこれまでに1~3回ほど聴いたことのある人なので、サプライズではなく、それぞれが進境を示す好演。小井土文哉のラヴェルは軽妙洒脱というよりは重くロマン的で、筆圧強め。谷昂登のシューマンは強靭なタッチで白熱、前へ前へと直線的に驀進するシューマン。
●白眉は鈴木愛美のベートーヴェン。清新さと格調高さを兼ね備えた本格派のベートーヴェンで、造形としてはオーソドックス。作品の核心に迫る説得力のある表現。華よりも聡明さを感じる。これまでにくりかえし第3番を弾いていたけど、今回は第4番。着実に作品を手の内に収めているといった様子。客席は盛大な喝采。オーケストラも集中度が高く、サポート役に留まらない聴きごたえのある演奏。東響は歴代指揮者陣との蓄積があって、やはりベートーヴェンがうまい。
「ハウスメイド」(フリーダ・マクファデン)
●気軽に読めるミステリーを一冊紹介。フリーダ・マクファデン著の「ハウスメイド」(高橋知子訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)。なんと、全米200万部突破の大ベストセラー。シリーズの続刊も好調らしく、あまりに評判が良いので、まずは第1冊を読んでみた。主人公は10年も刑務所に服役した女性。仕事も住む場所もなく、車のなかで寝起きする窮状にあったが、運よく豪邸に住み込みで働くハウスメイドの仕事を手に入れる。だが、この一家はなにかおかしい。旦那は最高にハンサムで優しいのだが、雇ってくれた奥さんは要求が支離滅裂で意地が悪い。娘は生意気で、異様に扱いづらい。主人公は屋根裏部屋を与えられるが、鍵は外からしか掛けられないことに気づく。
●イヤ~な予感しかしないし、困った出来事が次々と起こるのだが、ミステリーとしての仕掛けはしっかりしていて、ある章を起点として、これまでとはまったく違った光景が見えてくる。意外性があると同時に古典的ともいうべきか。登場人物が少なく、ストーリーが明快で読みやすいのも吉。意外と後味もよい。なので十分におもしろいのだが、200万部も売れたのは、この本がミステリーであると同時にロマンス小説でもあるからだろう。自分はむしろそっちのほうが予期せぬ展開でびっくりした。えっ、そうなっちゃうの、えっ、なんでその人がそうなるわけ?みたいな。しかし、これの性別を逆にした展開は世の中に無数にあるはずで、その点で新たな気づきを得た一冊。
●そういえば、ミステリーで思い出したけど、アガサ・クリスティーが書いたミステリーじゃない小説、「春にして君を離れ」が光文社古典新訳文庫から廣野由美子訳で刊行されている。自分は旧訳でしか読んでないけど、これは打ちのめされるような傑作。クリスティーはミステリーを書かなかったとしても偉大な作家になったんじゃないだろうか。これ、ただの嫌なオバサンの話じゃなくて、ワタシやあなたについての小説だと思う。新訳で読み直してもいいかもしれない。
メルヴィル「白鯨」 その6 海のマクベス

●(承前)メルヴィルの「白鯨」は大著だが、白鯨すなわちモービィ・ディックが本当に姿を現すのは最後の3章だけだ。その1で第132章「交響楽」について書いたけど、その直後の第133章「追跡──第一日」から第135章「追跡──第三日」まで。狂乱のエイハブ船長は三日間にわたって執拗に白鯨を追う。戦いの場面は壮絶だ。エイハブは叫ぶ。
「打ち込め、打ち込め、おまえの釘をな、おお、波よ! 釘の頭が沈みこむまで打つがよい! だが波よ、いくら打っても、打ちつける蓋はないぞ。あいにく、わしは棺桶にも柩車にも縁はないのだ──この世でわしを殺せるのは麻縄だけだ! はっ! はっ!」(第135章)
●この台詞は第117章「鯨番」での拝火教徒フェダラーの予言を受けている。拝火教徒はエイハブに向かって「棺桶も柩車も、あんたとは無関係だ」「麻縄以外では死なん」と予言する。エイハブは「絞首刑でしか死なん、という意味だな──そうなりゃ、わしは陸でも海でも不死身ということになる」と解して哄笑する。これは今どきの言い方でいえば「フラグが立つ」というヤツだ。エイハブは神をも恐れぬ様子でモービィ・ディックと戦うが、最期はあっけない。
銛が投じられ、銛を打たれた鯨は急発進し、綱は摩擦で発火せんばかりの勢いで綱受けの溝を疾走し──溝をはずれた綱はもつれた。エイハブは身をかがめてもつれをなおそうとし、事実みごとにもつれはなおしたが、桶から飛ぶように繰り出す綱がその首に巻きつき、トルコの啞者の絞首刑執行人が犠牲者の首をしめるときのように声もなくボートから姿をけしたので、乗組みはだれもエイハブがいなくなったことにしばらく気づかなかった。
拝火教徒の予言通り、綱が首に巻きついて、エイハブは海に消える。しかも、だれにも気づかれずに。メルヴィルが書きたかったのはこれか、と思う。エイハブはずっとモービィ・ディックに意味と物語を与え続けていたが、相手は最後の最後まで超然とし、エイハブのことなど歯牙にもかけない。エイハブは己の妄執に殺されたともいえる。
●この拝火教徒の予言とエイハブの解釈は、シェイクスピアの「マクベス」を強く連想させる。「女から生まれた者には倒されない」「バーナムの森が動かないかぎり敗れない」という魔女の予言に己の無敵を信じるマクベスの姿は、エイハブとぴたりと重なる。
メルヴィル「白鯨」 その5 冷蔵庫もない時代に船でなにを食べていたか

●(承前)まだ続く、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」の話題。この大作のなかで妙に印象に残るのが、捕鯨船内での食事のシーン。第34章「船長室の食卓」では、船内のヒエラルキーが食事を通して描かれる。正午になると船長室にエイハブ船長、一等航海士スターバック、二等航海士スタッブ、三等航海士フラスクが集まって食事をとる。厳粛な雰囲気で、船長が肉を切り、航海士たちが黙って皿を差し出して受け取る。
それからうやうやしく肉にナイフをいれ、ナイフが皿にこすれて音をたてたりしようものなら、一瞬びくりとする。肉をかむときにも音をたてないように注意し、のみこむときにもそれなりの用心をする。船長室で行われる食事は、ドイツ皇帝が七人の選挙侯と粛々と食事をするのがならいのフランクフルトで行われる戴冠式の晩餐会にいくらか似て、絶対的な沈黙のうちに行われる。
●このなかでいちばん下っ端のフラスクは、塩漬け牛の脛肉や鶏の足先をあてがわれるが、バターには手を出さない。バターは貴重品なのだ。とはいえ、これは船でいちばん偉い人たちの最高ランクの食事。彼らに続いて、二番手グループがやってくる。3人の銛打ちだ。彼らは自由奔放に大騒ぎをしながら食べ、旺盛な食欲を満たす。給仕は大忙しだ。
●たぶん、船長室で給仕を伴って食事をとれるのはここまでだろう。下級船員たちははるかに質素なものを、テーブルなどないような場所で食べていたはず。メルヴィルは実際に捕鯨船に乗った経験があるわけだが、その立場は末端船員で小説内のイシュメールの立場に近い。下記参考サイトの記述によれば、船には塩漬け肉、乾パン、乾燥豆、米などの保存食が積まれていたが、食べ物にはイヤな虫がついていたり、腐敗したりと大変だったようだ。なにせ3年間、常温で保存するのだ。そう考えると、鯨肉のステーキをありがたがる者がいても不思議ではない。フレッシュな肉を食べることができるのだから。(→つづく)
