●「窓の杜」を眺めていたら、「CD2WAV32が令和に復活。寿命間近かもしれないCDをリッピングしてみた」という気になる見出しが目に入った。記事の最初の一文は「CDで音楽を聴く人を見かけなくなった令和7年、CDリッピングツールCD2WAV32の最新版が公開された」。なかなかパンチが効いているが、世間一般ではそれが真実だろう。で、このリッピングという言葉にも懐かしさが漂うところだが、ともあれCD2WAV32が20年ぶりに更新され、Windows 11専用のツールとして生まれ変わった。CDのリッピングにはいろいろなツールがあって、標準搭載のWindows Media Player Legacyでもたぶんまだ可能だとは思うが、専用ツールを使えばもっと使いやすいにちがいない。
●で、件の記事では、CDの耐用年数は30年程度とされるので(諸説あり)、古いCDはリッピングしておくと安心だよ、と記される。親切である。が、ここを読んでいるみなさんには、もはやそういう段階を超越している方も多いのでは。CDも何千枚という単位になれば、リッピングなど非現実的。そして、初期のCDはすでに余裕で30年以上経っている。だったら、もうしょうがない。もし聴けなくなったらそれまでのもの。悟りの境地だ。ストリーミングで提供される音源はある日突然なんらかの理由(たとえば権利上の理由)で聴けなくなるかもしれないという可能性がよく指摘されるが、CDだって事情はたいして変わらないということか。
●その意味ではダウンロードで音源を購入して、しっかりバックアップをとるのが最強なんだろうけど、どう考えても少数派。
●それと同じ記事で知って衝撃だったのは、「CDDBサーバー freeDB.org は5年前に閉鎖されており」という話。えっ、マジっすか。代替手段がなくはないようだけど、輸入盤のマイナーレーベルに対応しているとは思えないので、もはやリッピングしてもメタデータ(楽曲情報)を拾えないのか? いや、どうなのかな、それともできるのかな。試してみればすぐにわかるけど、うーん、面倒だな……。
約20年ぶりに更新されたCDリッピングツール CD2WAV32
ふたたびジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団、「春の祭典」他
●9日はサントリーホールへ。昨晩に続いてのジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団。この日はソリストにHIMARIが登場するとあってか、全席完売。プログラムはジャレルの「ドビュッシーによる3つのエチュード」、シベリウスのヴァイオリン協奏曲(HIMARI)、ストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」。昨日書き忘れたけど、弦は対向配置。開演前の楽員入場はアメリカのオーケストラと同様、各自が自分のタイミングで入って音出しをする方式。
●一曲目、ジャレルの「ドビュッシーによる3つのエチュード」はたぶん初めて聴いたけど、ドビュッシーの12の練習曲から第9、10、12曲を抜粋して管弦楽用に編曲したという曲。完全にドビュッシー・スタイルのオーケストレーションで、本物?ってくらいのドビュッシー感。シベリウスのヴァイオリン協奏曲では、先日ベルリン・フィルへのデビューが話題を呼んだHIMARIが主役。14歳ということだが、遠目には年齢以上に年少に見える。みずみずしいソロ。オーケストラは彫りの深い音楽で応える。大喝采の後、ソリスト・アンコールでイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番。すっかり手の内に入った作品のようで、鮮烈。感嘆するとともに、ただただ健やかな成長を願うばかり。HIMARIのお母さん、吉田恭子も有名なヴァイオリニスト。昔、お母さんのCDについて原稿を書いた記憶がある……。
●後半、ストラヴィンスキー「春の祭典」は、前夜の「ペトルーシュカ」と同様、オーケストラの持ち味が出ていたと思う。カラフルで明るく、パステルカラーみたいな清爽さ。ノットが意匠を凝らした鮮度の高い「春の祭典」で、キレも十分、推進力と弾力性を感じる。終盤はスリリング。この日もノットの短いスピーチが入って、アンコールとしてラヴェルの「マ・メール・ロワ」終曲の「妖精の園」。このオーケストラにぴったりの選曲だろう。柔らかくて優しい。爽快な幕切れの後、拍手が続いたが、多くの楽員たちはそのままステージに残って記念撮影大会に。ノットも登場して喝采を浴び、流れで記念撮影の和に入った。わしゃわしゃとした祝祭感がなかなかよい。
●記念撮影の様子をメタ記念撮影する人たち……の様子を撮ったメタメタ記念撮影。
ジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団の「ペトルーシュカ」他
●8日はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団。東京交響楽団のホームであるミューザ川崎で、ノットが別のオーケストラを指揮している。これはパラレルワールドに迷い込んだような不思議な光景。ノットは2017年よりスイス・ロマンド管弦楽団の音楽&芸術監督を務めている。
●プログラムはオネゲルの交響的運動第2番「ラグビー」、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番(上野通明)、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1911年版)。オネゲルは一応「お国もの」ということになるのか。「ラグビー」は好きな曲なんだけど、ライブで聴く機会はかなり貴重。スマートな演奏で爽快。同じフットボール仲間ということで、自分はサッカーのイメージで聴く。イメージとしては両チームともコンパクトな陣形を保ったままプレッシングの応酬を続けるモダンフットボールで、スコアは0対0だ。ショスタコーヴィチでは上野通明が縦横無尽のソロ。切れ味鋭く、気迫に満ち、しかも美音。この曲、初めて聴いたときから、冒頭主題の反復がなにかの警告みたいだなーと感じている。耳について離れない執拗さ。一本しかないホルンが活躍する珍しい曲。ソリスト・アンコールはプロコフィエフの「子供のための音楽」から「行進曲」。これはウィットに富んだ楽しい曲。
●後半のストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」は1947年の改訂版ではなく、より大編成の1911年版。改訂版のほうが色鮮やかでシャープな印象があるが、作品が当初与えた衝撃を重視してのノットらしい選択。情報量の多い細密なカオスが愉悦をもたらす。カラフルだけど、透明感があり、ふっくらと柔らかい質感のサウンドで、オーケストラの持ち味が出ていたと思う。満喫。とても盛り上がる曲なんだけど、最後はホラーのように不気味な叫びで終わるのが「ペトルーシュカ」。これで終わるわけにはいかないと、ノットはスピーチをして、その3年前に作曲された「花火」をアンコールに演奏。これもオーケストレーションがカラフルで、華やかに幕を閉じた。来日オーケストラのアンコールは気軽に聴ける有名曲が選ばれることが多いけど、こういう気の利いた選曲をしてくれるのがノット。ありがたし。
●カーテンコールをくりかえした後、ノットのソロ・カーテンコールに。なんだか東響のときとは違った雰囲気だなーと思っていたけど、ノットも楽員もみんなネクタイをせずにシャツの襟を開いているからなのかも。
「成瀬は天下を取りにいく」(宮島未奈著)が文庫化
●これは青春小説の名作だと思う。シリーズ累計135万部(!)を突破した2024年本屋大賞受賞作ということで、今さら紹介するまでもないが、「成瀬は天下を取りにいく」(宮島未奈著/新潮文庫)はとてもよい。連作短編集の形をとっており、滋賀県大津市に住むヒロイン、成瀬あかりの中学2年生から高校3年生までのエピソードが描かれる。成瀬は自分をナチュラルに信じることができる人間で、やりたいと思ったことをなんでもやってしまう。とてもまっすぐで優秀な子で、他人の目を一切気にしない。特徴的なのは各ストーリーごとに視点が入れ替わり、周囲の人物から見た成瀬が描かれるところ。成瀬は常に他者から見つめられる存在で、本人の内面は一貫して描かれない。そこがいい。読後感は爽やか。子どもは子どもの読み方で、大人は大人の読み方で楽しめる。
●で、クラシック音楽ファン的に見逃せないのは、これが膳所(ぜぜ)を舞台にした物語であるところで、膳所で思い出すのはびわ湖ホール。びわ湖ホールはJR膳所駅から徒歩圏内。駅を出ると、小説の舞台にもなったときめき坂だ。びわ湖ホールに向かう途中にあるショッピングセンター、Oh!Me大津テラスの食料品売り場、フレンドマートで成瀬がアルバイトをしていたという設定。惜しい、一昨年、びわ湖ホールに遠征した際には、まだこの本を読んでおらず、Oh!Me大津テラスには立ち寄ったものの、食料品売り場には行かなかった。今だったら、聖地巡礼できたのに!
●続編の「成瀬は信じた道をいく」もおもしろい。成瀬は大学生になる。フレンドマートにやってくるクレーマー主婦と成瀬の交流が秀逸だと思った。
カリーナ・カネラキス指揮東京都交響楽団のマーラー「巨人」他
●4日はサントリーホールでカリーナ・カネラキス指揮都響。ラヴェルのピアノ協奏曲(アリス=紗良・オット)、マーラーの交響曲第1番「巨人」というプログラム。チケットは完売。アメリカ出身のカネラキスはこれが日本デビュー。一曲目から協奏曲だったので、舞台袖からアリス=紗良・オットとカネラキスのふたりが颯爽と登場。ふたりともカッコいい。ぱっとステージが華やいだ雰囲気に。アリス=紗良・オットのラヴェルは以前にも聴いた記憶があるが、すっかり手の内に入った作品といった様子で、のびのびと爽快に。しっかりと日本語のスピーチを入れてから、アンコールにペルトの「アリーナのために」。チルい曲。袖に引っ込むときは裸足でスタスタと駆けていく。ふふ。
●後半はマーラー「巨人」は、つい先日もタルモ・ペルトコスキ指揮N響で聴いたばかり。ともに気鋭のデビューということもあり、どうしたって比較してしまう。ペルトコスキが野心的な解釈で奮闘していたのに比べれば、カネラキスはずっと穏当な解釈。ダイナミクスも上にも下にもいくぶん控えめで、流麗な横の流れが印象的。明瞭なサウンドで表からも裏からも光を当てたようなマーラーで、ほとんど快活といってもいいほど。おしまいはアッチェレランドとともに輝かしく。前半のラヴェルもそうだが、後半も好みの分かれるところかと思ったが、カーテンコールをくりかえした後、指揮者のソロカーテンコールまであった。意外な気もしたけど、青春の音楽と考えればこういうスタイルがふさわしいのか。
●第3楽章、コントラバスのソロが朗々として立派。この曲、よく童謡の「フレール・ジャック」と説明されるが、日本で親しまれているのは断然「グーチョキパーでなにつくろう」だろう。保育園、幼稚園の定番手遊び歌。グーチョキパーでなにを作るか。ワタシのお気に入りは、グーとパーでヘリコプターだ。グーとチョキでカタツムリもよい。
「フリアとシナリオライター」(マリオ・バルガス=リョサ著/野谷文昭訳/河出文庫)
●未読だったバルガス=リョサの「フリアとシナリオライター」(野谷文昭訳/河出文庫)を読む。夏に岩波文庫から「世界終末戦争」が刊行されると聞き、その前に軽く読めそうなものを一冊と思って。いやー、怖いくらいに傑作。こういう軽快なタッチの小説を書いても、やっぱりバルガス=リョサは偉大だ。後にノーベル文学賞を受賞する(そしてペルー大統領選に出馬してフジモリに敗れる)作家の半自伝的青春小説。主人公はラジオ局で働く作家志望の大学生で、義理の叔母であるフリアとの恋がストーリーの軸になっている。フリアは実在の人物で、このロマンスは実話なんだとか。びっくり。
●が、ロマンスだけではバルガス=リョサの小説にはならないわけで、主人公のストーリーが描かれるのは奇数章だけ。偶数章ではぜんぜん関係のない奇想天外な物語が混入してくる。これが妙に通俗的で、でもやたらとおもしろい。なんなんだこれはと思って読み進めていると、やがてこれらのサブストーリーは、登場人物のひとりである天才シナリオライターが書いているラジオ劇場なのだと気づく。一種の枠物語なんである。で、この天才シナリオライターがまたとびきりの奇人で、やはり実在のモデルがいるのだとか。メタフィクション的な仕掛けを施し、さらに作家志望の主人公と奇人のシナリオライターというふたりの物書きを登場させることで、これは「書くことについての物語」になっている。
●そういえば「都会と犬ども」(街と犬たち)でも章ごとに複数の視点が使い分けられ、そのなかで一人称の「僕」がだれなのかわからないまま進むという趣向がとられていた。あれに比べればシンプルだが、「フリアとシナリオライター」でも語りの構造のおもしろさは健在。
●笑ったのは、放送局がラジオ劇場の台本を目方で買っていたというくだり。70キロもの紙の束を読めるはずがないから、中身なんか読まずに台本を買う。読まないのだから、中身の質もわからないし、単語数やページ数を数えることもできない。だから牛肉やバターのように目方で原稿を買うというわけ。
●関連する過去記事
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その2
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その3
「緑の家」(バルガス=リョサ著)
バルガス・リョサ vs バルガス・ジョサ vs バルガス=リョサ
東京都現代美術館 岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here
●東京都現代美術館で開催中の「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」(~7/21)へ。1980年代の初期作品を含めつつ、20年代以降の新作がドカンつ集められた展覧会。会場に入るとまずは壁に上の写真のような立体作品がたくさん展示されている。「あかさかみつけ」とか「おかちまち」とか「そとかんだ」というタイトルで、「あかさかみつけ」にも色違いがいっぱいある。
●こんなふうに、わりと間隔広めでずらりと。「あかさかみつけ」という題から、もしかして地下鉄の赤坂見附駅の構造が簡略化、抽象化されているのかなと思ったんだけど、ぜんぜん違うっぽい。そもそも外神田って駅はないし。
●展示の中心となるのは20年代の新作。これがすごい迫力なのだ。上の写真が典型的なスタイルなんだけど、視覚的な情報量に加えて、作品タイトルがめちゃくちゃ長くて、とんでもないことになっている。たとえば上の左の絵は「おサカナたちは成長してゆくご自分の姿などにはお気づきにならない、だからこそは思う壶。誘いの水が水なのだから(地理には明るい)。海の下だろうと雪の中だろうと違わない(魂は舞いはじめ先へ急ぐ)、もう目覚めることもないだろう。」というタイトル。マジで。右は「淡水水産物つまりおサカナ、といっても人の放流したアユやニジマスを穫って暮らしている。水面から水の裏を見透す(背後に食客三千)。水を飲み、氷を食べる暮らしと違わない(水は凍って大きく膨らむ)、だからサカナたちから税を奪う。」と題されている、絵のタイトルがすでに詩みたいな?
●作品の量がすさまじくて、しかも一作一作にそんな長いタイトルが付いていて(ものによって英語の長文だったりする)、だんだんこちらの感覚が麻痺してくるような饒舌さ。量によって伝わるなにかがあるという発見。
山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団、バーミンガム現代音楽グループ
●30日は東京オペラシティで山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団。プログラムはショスタコーヴィチの「祝典序曲」、エルガーのチェロ協奏曲(シェク・カネー=メイソン)、ムソルグスキー~ヘンリー・ウッド編の組曲「展覧会の絵」。開演直前に山田和樹が登場して短いトーク。ショスタコーヴィチの「祝典序曲」でバンダに千葉県立幕張総合高校の生徒たちが登場するという案内あり。日本ツアーの各地でそれぞれの地元の生徒たちと共演するそうで、「外国からオーケストラが来て、ただ演奏会を開いて帰るだけの時代は終わりつつある」といった趣旨の話があった。「祝典序曲」のおしまいでオルガン席のあたりに高校生たちのバンダが登場。立派な演奏で、終わると大喝采。高校生たちにはとてつもない貴重な音楽体験になったはず。感動的な光景。
●エルガーのチェロ協奏曲では、噂のチェリスト、シェク・カネー=メイソンが登場。イギリスではジャンルの枠を超えたスターのようだが、日本で協奏曲を弾くのはこれが初めて。山田和樹が熱望して今回のツアーに参加。まだ26歳。髪を短くしたことを知らなかったので、「アー写」との違いにびっくり。深く温かみのある音色がすばらしい。決して派手ではないのだが、歌心にあふれたまっすぐな音楽。アンコールはピッツィカートのみの曲で、なにかわからなかったのだが、ボブ・マーリーの She used to call me dadaという曲だと後で知る。シェクがボブ・マーリーを弾くという、このあたりの文脈が自分には見えないところ。
●メインはムソルグスキー~ヘンリー・ウッド編の組曲「展覧会の絵」。ヘンリー・ウッド卿といえばプロムスの創設者であり、音楽祭の顔。一種の「お国もの」という選曲。有名なラヴェル版よりも先に作られた編曲。編曲のコンセプトはラヴェルとはまったく違っていて、まずプロムナードが冒頭にしか出てこない。絵と絵の間をそぞろ歩く様子として曲間になんども姿を見せるという趣向がカットされているのだ(プロムナード・コンサートの創始者なのに!)。金管合奏で始まり弦楽器が受け継ぐプロムナードは、ラヴェル版ともストコフスキ版とも違ったテイスト。全体に饒舌というか説明的で、オルガンまで入った大編成のオーケストラのあらゆる機能を使わずにはいられないといった様子。作曲家よりも指揮者の発想なのかなと感じる。ラヴェルの洗練度を痛感するが、一方でヘンリー・ウッド版ならではのワイルドなおもしろさがあって、ところどころで「そう来たか!」という驚きがある。アンコールにウォルトンの戴冠式行進曲「宝玉と王の杖」(宝玉と勺杖)。これは本当の「お国もの」。この曲、前回に聴いたのは山田和樹指揮日本フィルだったと思うが、今度はバーミンガム市交響楽団の演奏で聴くことになるとは。勢いがあって、格調も高く、高揚感あふれる幕切れ。
●ところで、これは書き留めておく必要があるのだが、本公演の開演に先立って、東京オペラシティの地下のリサイタルホールで山田和樹指揮バーミンガム現代音楽グループのミニコンサートが開かれた。扱いとしては別公演で、オーケストラの公演が19時開演なのに対して、こちらは18時開演。30分予定の公演なのだ。これはおもしろいアイディア。しかも、藤倉大の「アンセム」(2023)日本初演、レベッカ・サンダースの「スターリング・スティル」(2006)、藤倉大の笙協奏曲(2024)日本初演の3曲も。笙は出会ユキ。「アンセム」はわれわれのアンセム、つまり「君が代」の再構築。しかしどんな形であらわれようとも、「君が代」に対しては条件反射で心のなかで歌ってしまう自分を発見。心はスタジアムでの代表戦。笙協奏曲では笙の表現力の想像以上の高さに感嘆。また聴いてみたい。この公演でも冒頭に山田和樹が短く話した。公演が終わると18時40分くらいだったので、その後、ほとんど間を置かずにコンサートホールの開演前トークに出てきたわけで、ノンストップ山田和樹劇場だった。ずっと走り続けている。