●前から気になっていた映画「PERFECT DAYS」(ヴィム・ヴェンダース監督)をAmazon Primeで見る。役所広司主演。東京のど真ん中でトイレ清掃員をする主人公の淡々とした暮らしぶりを描いた映画なんだけど、とても美しく、味わい深く、でもいろいろと引っかかる映画でもある。主人公は風呂もない古アパートに住み、毎朝早く起床して、布団を畳み、清掃員の服を着て出かけ、缶コーヒーを飲み、車を運転し、公衆トイレを巡る。ていねいに掃除をする。昼はコンビニかなにかで買ったものを公園で食べる。夜は安いお店でお酒を一杯飲む。お風呂は銭湯に行く。読書をしながら寝る。週末はコインランドリーに行く。少しいい感じの女将のいる行きつけのスナックに顔を出す。どうやら家にはテレビもないし、スマホも持っていない(ガラケーは持っている)。でも本とカセットテープはある。洋楽好き。孤独だけど、単調な暮らしに喜びを見出している。なんだか素敵だな、って思わせる。仕事ぶりが熱心なのもいい。
●途中でこの主人公の過去が垣間見えるところがあって、どうやら本当は裕福な生まれなんだけど、実家とは縁を切ったのか過去になにかがあって、この暮らしを自ら選択している。本もフォークナーを読んでたりする。目覚ましなしで朝パッと起きて、ルーティーンを順守する感じは、なんとなく矯正施設にいたのかな、っていう印象も受ける。
●木のモチーフがなんども出てくる。夢のなかの木漏れ日、公園の木、鉢植えの木、古書店で買った幸田文の「木」、スカイツリー。
●でも、これって「おじさんファンタジー」だな~ってのも強烈に感じるんすよね。生まれは高貴だけど、今はトイレ清掃員。突然、かわいらしい姪が訪ねてきて、泊めろって言う。姪といっしょに銭湯に行く。いちばん「それはないだろ」って思ったのは、若い同僚のガールフレンドにほっぺに「チュッ」ってされる場面。あのね……。
●それと、一生懸命トイレを掃除しているんだけど、汚物も吐瀉物もまったくなくて、掃除する前からもうキレイなトイレばかり。実態はずっとおぞましい状態になっているはず。それは映画だからといえばそれまでなんだけど、解釈としては主人公の生き方を表現しているのかなとも思った。つまり「本当に向き合わなければいけない問題から目をそらして、きれいなところだけを掃除しつづける人生を選んだ男」っていう少々辛辣な表現なのかなと。
映画「PERFECT DAYS」(ヴィム・ヴェンダース監督)
セバスティアン・ヴァイグレ指揮読響のベルク「ヴォツェック」演奏会形式
●12日はサントリーホールでセバスティアン・ヴァイグレ指揮読響のベルク「ヴォツェック」演奏会形式。チケットは完売。ヴォツェックにサイモン・キーンリーサイド、マリーにアリソン・オークス、鼓手長にベンヤミン・ブルンス、アンドレスに伊藤達人、大尉にイェルク・シュナイダー、医者にファルク・シュトルックマン。望みうる最上の歌手陣と、磨き上げられたオーケストラによって、ヴァイグレ&読響コンビの到達点とでも言えるような記念碑的な公演になった。ステージ上には大編成のオーケストラが陣取り、精妙かつ鋭利なサウンド。休憩がなく、純然たる演奏会形式の公演ということもあり、長大な交響詩を聴いたかのような気分。
●ヴォツェック役は当初予定のマティアス・ゲルネからサイモン・キーンリーサイドに変更になったが、冷静に狂っている感じで共感可能なヴォツェック像。キーンリーサイド、ずいぶんキャリアが長いはずだが、あまり姿が変わっていない。マリー役のアリソン・オークスは同コンビによる「エレクトラ」で、題名役に負けないパワフルなクリソテミス役を歌っていたが、今回も強烈。ヴォツェックを返り討ちにしてくれそうな迫力。おしまいで出てくる子どもたちはTOKYO FM少年合唱団。みんなうますぎて驚愕。「ホップ、ホップ!」に震撼。
●「ヴォツェック」って、ダークサイドの「ばらの騎士」感がある。ワルツが奏でられ、社会階層と愛の物語で、伝統の再構築で、幕切れで子供が話を締める。
●聴いた後に無性に甘いものがほしくなるオペラ。アイスモナカ、かな。
東京都美術館 ミロ展
●東京都美術館で開催中のミロ展へ(3/1~7/6)。初期作品から晩年の作品までがそろった充実の大回顧展。作風の変遷が明快なので、年代別に眺めていくおもしろさがいっそう増す。初期のキュビズム、フォーヴィスムの影響が大きかった頃から、やがて具象が抽象になり、写実が記号になり、面が線になり、自然賛歌が都市の憂鬱になり、色彩の使用が限定的になり、だんだんミロがミロになってくる。最後のフロアのみ撮影可だったので、写真は後年の作品ばかりだが、上は「太陽の前の人物」(1968)。太陽はミロの主要なモチーフのひとつであるね……と言いつつ、頭に思い浮かんだのは、アスキーアートの
_| ̄|○
だった。もう太陽が頭にしか見えないっ!
●こちらは「月明りで飛ぶ鳥」(1967)。月も主要なモチーフ。黄色というより橙の月。夜空は緑。
●ミロが生きた時代は戦争の時代。スペイン内戦から逃れ、第二次世界大戦から逃れ、逃げることに大きなエネルギーを費やしている。戦時の鬱々とした気分は作品からも伝わってくるが、対照的に戦後の開放感もはっきりと感じる。ミロは元気に長生きしたので、自分の名声が世界中に広まり、教科書に載るような存在になるのをしっかりと見届けることができたはず。孫のための作品が展示されているのを見るとほっとする。この孫のために描いた「エミリ・フェルナンデス・ミロのために」と、星座シリーズの3点が圧巻。
●鳥、星もよく出てくるモチーフ。武満みたい。
●ポスターもいくつか展示されていて、これは「バルサ FCバルセロナ75周年」(1974)。これがフットボール・クラブの歴史と伝統というものなのか。もう羨望しかない。
●立体作品もある。これは「逃避する少女」(1967)。着色ブロンズ。頭上に乗っているのは蛇口。造形もおもしろいが、この色彩感と来たら。赤と黄色が、とてもミロだと思うじゃないっすか。それで。
●「逃避する少女」のすぐ脇に、こんな消火器が置いてあるんすよ! これ、ミロでしょ!! この赤と黄色。黒の取っ手の曲線と直線のコントラスト。コンセントの造形。ぜったいミロだ! ミロの消火器だ! そんなことを思いながら、ミロ展で消火器の写真を撮っている自分。いやー、これ、わざとやってるでしょ。
●これはかなり大型の作品なんだけど、遠目に見ると墨絵っぽくて、東京国立近代美術館の日本画フロアにでも来たのかと錯覚するが、近くで見るとミロらしい赤や黄色、青も使われている。題は「花火 I」「花火 II」「花火 III」(1974)。ということは、白い背景が夜空で、墨のような黒が炎なのか。
●高解像度の写真はインスタで。
Trio Rizzle(トリオ・リズル)の「ゴルトベルク変奏曲」
●10日はトッパンホールのTrio Rizzle(トリオ・リズル)へ。毛利文香のヴァイオリン、田原綾子のヴィオラ、笹沼樹のチェロによるTrio Rizzleの公演第4弾。プログラムはシェーンベルクの弦楽三重奏曲、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(シトコヴェツキ編にもとづくTrio Rizzleバージョン)。
●シェーンベルクの弦楽三重奏曲、昨年の石上トリオに続いて、また聴くことができた。晩年期の12音技法による作品だけど、意外と聴きやすい曲という印象があるのは第1部のカッコよさ、熱さのおかげか。ロマンとパッションの音楽として聴く。きわめて明瞭な演奏。
●バッハ~シトコヴェツキ編の「ゴルトベルク変奏曲」は、84年のOrfeoレーベルの録音によって世に出た編曲。シトコヴェツキ、コセ、マイスキーのトリオで、これがリリースされたときの驚きは覚えている。当初はあまりに違和感が強烈で、この編曲は成立しないんじゃないかなと思っていたら、なんと、弦楽三重奏のためのレパートリーとしてどんどん広まって、今や完全に定着している。いつの間にか自分のなかでの違和感も収まってきて、やはり鍵盤楽器ではなく音の減衰しない弦楽器で演奏する意味は存外に大きかったのかと思い直す。で、シトコヴェツキはこれをグレン・グールドへのオマージュとして作ったわけだけど、当時は「ゴルトベルク変奏曲」といえばグールドがスタンダード。なので、作品観が現代とはぜんぜん違う。その後、チェンバロによる古楽奏者たちの録音が次々と登場し、弦楽器のレパートリーにもHIPなスタイルの演奏があふれ、ヴィブラート、フレージング、アーティキュレーション、リピートの有無など、バッハの演奏スタイルについての感覚が大きく変わった。そんな今の世代のバッハ観で、40年前のシトコヴェツキ版を再構築したのが、この日のフレッシュな「ゴルトベルク変奏曲」だったと思う。シトコヴェツキのバッハが、今のバッハに生まれ変わったという感慨に浸る。
「世界一流エンジニアの思考法」(牛尾剛)
●なんのきっかけで手にしたのかは忘れたけど、これほど頷きまくった仕事本はない。「世界一流エンジニアの思考法」(牛尾剛著/文藝春秋)の著者は米マイクロソフトのソフトウェアエンジニア。だがエンジニアに限ることなく、働く人々にとって有用な一冊だと思った。みんなが気持ちよく働くにはどうしたらよいか、という点で納得のゆくことばかり。
●とくに自分にとって響いたのは、生産性を加速するうえで重要なマインドセットとして「リスクやまちがいを快く受け入れる」というくだり。Fail Fast(早く失敗する)っていう標語がすごい。つまり、成功しようがしまいが、まずはやってみて、早くフィードバックを得て、早くまちがいを修正しようという精神。
アメリカでは、失敗や間違いで怒られることが皆無だ。失敗に気づいた後に、本社に報告すると、「フィードバックをありがとう!」と大変感謝される。(中略)
誰かが失敗したところで「あいつはダメだ」とネガティブに言っている人は見たことがない。だから、より難しいことへのチャレンジがすごく気楽にできるのだ。社内のイベントのハッカソンでもその主導者が「今日はたくさん失敗しよう!」と掛け声をかけていたのが印象的だった。
失敗しないことに最大の価値を置くと、なにもしない人が王者になってしまうんすよね。
●あと、会議。日本だと会議にしっかり準備してくるとたいてい褒められると思うんだけど、「準備」も「持ち帰り」も止めて、その場で解決するという流儀。
インターナショナルチームを観察していると、彼らは常に「会議の場」だけで完結する。ざっくりしたアジェンダ(検討事項)はあるが、準備に時間をかけて会議に臨むことは一切しない。(中略)会議後の「宿題」や「持ち帰って検討すること」もめったにない。必要な「意思決定」は、極力その場で行う。
自分は「準備」にはあまり抵抗はないんだけど、「持ち帰り」はかなり抵抗がある。いちばん困るのは結論が先に決まっていて、責任を参加者全員に分散するためだけの会議。
●うらやましいなと思うのは、部下が「仕事を楽しんでいるか?」を確認する文化。メンバーが幸せに働けるようにするのがマネージャの役割だって言うんすよね。「チーム内ではスキルや経験に関係なく、全員が同じ責任を持っているフラットな『仲間』としてふるまう」っていうカルチャーもいいなと思った。
沖澤のどか指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 東京定期
●6日はサントリーホールで沖澤のどか指揮オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)。だんだん周知されてきたかもしれないけど、OEKの東京定期は18時30分開演。要注意だが、終演が早まるのはいろいろとありがたい。客席は盛況。開演前に広上淳一OEKアーティスティック・リーダーが登場して、能登の支援についての報告があった。
●かつてOEK指揮研究員を務め、事務局仕事も経験した沖澤のどかが、大きく育ってOEKの指揮台に帰還。プログラムはプロコフィエフの「古典交響曲」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調(牛田智大)、オネゲルの交響曲第4番「バーゼルの喜び」。「古典交響曲」はOEKの「持ち曲」というか、さまざまな指揮者たちのもとで演奏してきた定番のレパートリー。室内オーケストラならではの軽快機敏さが特徴だが、沖澤の「古典」は一段階スケールアップした大柄な音楽。アクセントがくっきりして、管と打楽器のバランスが強めで、とても精力的な音楽になっている。モーツァルトのソロを務める牛田智大を聴いたのは久々。3年ぶりかな。すっかり立派な大人のピアニストになっていて、明快なタッチによる堂々たるモーツァルト。第1楽章のカデンツァ、古典派様式をはみだしたロマン派ヴィルトゥオーゾ寄りのスタイルだったけど、だれのものなんでしょ。バロック・ティンパニ使用。ソリスト・アンコールは、吉松隆の「ピアノ・フォリオ……消えたプレイアードによせて」。だれの曲かわからずに聴いたけど、モーツァルトの余韻の後にふさわしい清冽さ。
●後半、オネゲルの交響曲第4番「バーゼルの喜び」は快演。コンパクトな編成による透明感のあるサウンド。いろんな相反する要素がひとつになった曲で、田園的でもあり都会的でもあり、楽しげでもあり悲観的でもあり、未来を向いているようでもあり懐古的でもあるという、戦後の空気のなかで生まれた二律背反の音楽。終楽章に登場するバーゼルのお祭りのメロディは今も使われていて、下のBasler Fasnacht 2024の映像を見ると、あそこで行進曲調になるのが腑に落ちる。アンコールに芥川也寸志「トリプティーク」より第2楽章。ソリストとオーケストラのアンコールがともに日本人作品でそろえられていた。
パンゲア・トリオ・ベルリンのドヴォルザーク、ブラームス、ラヴェル
●5日は文京シビックホールの大ホールでパンゲア・トリオ・ベルリン。ベルリン・フィルの第2ヴァイオリン首席奏者のマレーネ・イトウ、同じくベルリン・フィルのチェロ奏者ウラジーミル・シンケヴィッチ、ピアノのヤニック・ラファリマナナの3人からなるトリオ。パンゲアとはすべての大陸、現在の大陸が分裂する以前にひとつになっていた超大陸の意。少し変わった名前だと思ったが、マレーネ・イトウが日本にルーツを持ち、オーストラリアで学んでいることや、ラファリマナナがパリで学んだ後にボストンに移り、今はベルリンを拠点としていることなど、それぞれの多様なルーツや拠点の変遷を考えれば、納得のネーミング。
●プログラムはラフマニノフのヴォカリーズ、ドヴォルザークのピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」、ブラームスのピアノ三重奏曲第3番、ラヴェルのピアノ三重奏曲。こちらもそれぞれ異なる文化圏の作品が並んでいて、汎世界的な選曲ということか。洗練され、練り上げられた演奏。起伏に富んだドラマを描いていたとは思うのだが、なにしろ会場が2000席クラスの大ホールだったので、巨大空間の残響のなかでディテールが埋もれた感は否めない。弦のふたりはふだんから同じベルリン・フィルで弾いているわけだが、ピアノが巧みに弦と溶け合い、3人がいっしょになってひとつの絵を描く。こうして並べると、やはりラヴェル作品の独創性は際立っている。白熱する終楽章は圧巻。
●大きなホールだがお客さんはよく入っていた。プログラムノートに「楽章間での拍手はお控えください」とわざわざ書いてあって不思議な気がしたが、演奏が始まったら楽章間で逐一拍手が起きた。珍しい光景だが、ふだんあまりクラシックを聴かない人も大勢来てくれたのだから喜ばしいこと。そして、楽章間で拍手をするかしないかは、聴衆が決めればよいことだと思う。
●文京シビックホール、たまにしか来ないけど、アクセスが抜群によい。地下鉄2駅から直結という恵まれた立地。
256GBのmicroSDカードを導入する
●先日モバイルPCを導入した際、SSDの記録容量が256GBのモデルを選んだ。一見、256GBでは少なそうだが、これはあくまでモバイル用のサブ機なのだから、デスクトップPCの全データを持ち歩く必要はない。写真や音源データを入れなければ、256GBでも空き容量がたっぷりある。
●で、それはそれで正しかったのだが、はたと気づいた。購入したFMV LIFEBOOKにはmicroSDカードのスロットがあるじゃないの。めったに使わないだろうけど、ここに写真や音源みたいな、でかくてふだん更新しない固定的なデータを入れておけばいいではないか。そう思って、KIOXIAの256GBのmicroSDカードを導入。こんな爪の先にのっかりそうな小さくて薄っぺらいカードに、本体の容量と同じ256GBが入るのかよ!と改めて感嘆。しかも信頼できるメーカー製でも2千円台の安さ。どうなってるの。
●不思議なことに同じようなmicroSDカードを大手家電量販店のサイトで見ると、価格が極端に違う。あれ、Amazonのほうは危ない商品だったかなと疑ったが、販売元はAmazon自身だし、ちゃんと本物と思しきKIOXIAの製品が届いた。今どき内外価格差? よくわからないが、検索したら同じような疑問を抱いている人がたくさんいることはわかった。