December 19, 2018

ダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団の「田園「巨人」

●18日はサントリーホールでダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団。プログラムはベートーヴェンの交響曲第6番「田園」とマーラーの交響曲第1番「巨人」。カッコウのさえずりが聞こえてくる自然賛歌的な要素を持つ2曲の交響曲が並ぶ。弦は今や標準化しつつある対向配置。ハーディングは札幌公演の際に凍結した路面で転倒し、右足首を骨折したということで、車椅子で登場して椅子に座っての指揮。なんと、先般のズービン・メータ指揮バイエルン放送交響楽団に続いて、またしても車椅子の指揮者が座って指揮する「巨人」を聴くことになった。その意味合いは著しく違うわけだが……。
●後半の「巨人」が鮮烈。ハーディングの十八番であちこちのオーケストラで同曲を振っているだけに、趣向が凝らされ、練り上げられた解釈といった感。オーケストラの音色は明るく華やか、管楽器は名手ぞろい。スケルツォの切れ込みが鋭い。第3楽章のコントラバスはソロで、これが朗々と滑らかに歌われる。先日のバイエルン放送交響楽団でも同様に感じたけど、ソロ・コントラバスの流麗さというのは作品の想定外の味わいでは。終楽章は輝かしく壮麗。クライマックスへと猛進して、客席からは盛大なブラボー。「巨人」は今年だけでもブロムシュテット指揮N響、メータ指揮バイエルン放送交響楽団の名演があって、聴かなかったけどつい最近ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルもあって、すごい演奏頻度なのだが、これだけ客席が熱くなる曲もそうそうない。ホルン隊が起立したときの視覚的なインパクトも抜群。
●ハーディングはカーテンコールができないので、ずっと指揮台上で喝采にこたえて、アンコールにエルガーの「エニグマ変奏曲」から「ニムロッド」。とてもエモーショナルで、官能的。客席はスタンディングオベーション多数。楽員が退出後も拍手が止まず、長く待った末に、上着を脱いだハーディングが杖をついて登場してソロ・カーテンコール。
●「巨人」の第1楽章、舞台裏で吹いていたトランペットがそっと入場することになるわけだが、黒服の男たちが静かに歩いてくる様子を見て、いつも葬列を連想するのはワタシだけだろうか。まるで第3楽章を予告するかのよう。

December 18, 2018

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のヴァレーズ&シュトラウス

●15日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。プログラムがすごすぎる。前半がヴァレーズの「密度21.5」と「アメリカ」(1927年改訂版)、後半がリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。ステーキの食後に鰻重みたいなハイテンション・メニュー。
●というか、一曲目の「密度21.5」は無伴奏フルートのための曲なわけで、オーケストラ曲ですらない。同楽団首席奏者の甲藤さちが演奏。どんな立ち位置で演奏するのかなと思ったら、前半2曲を拍手なしで続けて演奏するということで、最初から「アメリカ」の特大編成が舞台いっぱいに広がり、そのなかでポツンとフルートがただ一人演奏するというドラマティックな趣向。「アメリカ」冒頭がアルト・フルートで開始されるということで、フルートつながりで結ばれた2曲だが、洗練されたフルート・ソロの世界から、暴力的なほどの爆音が続く荒々しい世界へと飛躍するという、すさまじいコントラスト。山あり谷ありじゃなくて、山あり山ありで、どんどん山に対して感覚が麻痺してくる。うっすら漂うストラヴィンスキー「春の祭典」風味。苛烈。「もうそんなに食えないよ」って言ってるのに、ステーキが口の中に勝手に入ってくるくらいの飽和状態。
●「密度21.5」は初演者のフルートの材質であるプラチナの密度に由来するということなんだが、すごくないすか、プラチナ。鉄だって7.87なのに21.5もあるんすよ! 鉄パイプよりはるかに高密度なプラチナ・フルート。装備するとかなり強そう。
●後半の「英雄の生涯」、通常なら雄々しく奏でられる冒頭の英雄の主題だが、いくぶん柔和にふわりと始まった。先に巨大な「アメリカ」に接しているので、いつもは一大スペクタクルの「英雄の生涯」が相対的に小さく見える。最初から過去を懐かしんでいるかのようなノスタルジックな英雄像というか。実際に前半で消耗していた部分もあったとは思う。決して慣習的ではなく、鮮度は高い。次第に「アメリカ」での麻痺から解放されて、起伏に富んだ音のドラマに没入する。
●この日、配られていたチラシの束のなかに、本の注文書が一枚入っていた。休憩中に著者にお会いしたので勝手に宣伝しておくと、沼野雄司著「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」(春秋社)がもうまもなく発刊される。全560ページからなる、日本語初のヴァレーズの本格的評伝。これはスゴそう。

December 17, 2018

パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団

●12日は東京オペラシティでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル。ソリストにヒラリー・ハーンを迎えた豪華仕様で、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲、バッハのヴァイオリン協奏曲第1番および第2番(ヒラリーに2曲弾いてもらえて嬉しい!)、シューベルトの交響曲「ザ・グレート」。いろいろなオーケストラでポストを務めるパーヴォだが、ドイツ・カンマーフィルとのコンビからは特別な絆というか、ファミリー感が伝わってくる。ピリオド・スタイルのオーケストラにパーヴォらしい推進力が加わって、キレッキレのシャープな音楽。ヒラリー・ハーンは磨き抜かれた天衣無縫のバッハ。オーケストラ側とはまったくちがったアプローチのバッハなんだけど、彼女のスタイルで突きつめられた完成された芸術。つい最近リリースされたバッハの無伴奏アルバムも印象的だった。アンコールはやはりバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番から第2楽章「ルール」、さらに第6楽章「ブーレ」も。
●後半の「ザ・グレート」は快演。作品の持つ歌心やのびやかさと、パーヴォとオーケストラの鋭さ、細かなところまで意匠を凝らしたダイナミクスの設定が活かされて、たいへんな雄弁さ。怪物的な作品だなと改めて思う。リリカル・モンスター・ザ・グレート。アンコールはシベリウスの「悲しいワルツ」。十八番。なんども演奏する内にどんどん解釈が究められて、過剰なほどに彫琢された精巧な演奏に。
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●宣伝。ONTOMO連載「耳たぶで冷やせ」の第9回は、「待てない『第九』」。この年末も容赦なく歓喜がやってくる。

December 14, 2018

「翻訳地獄へようこそ」(宮脇孝雄著/アルク)

●「バーミンガム市交響楽団」の文字を目にするたびにモヤッとした気分になるのは、おそらくワタシだけではないと思う。若き日のサイモン・ラトルの躍進とともに飛躍的にその名を聞く機会が増えたオーケストラだが、なぜここだけが「バーミンガム市」と呼ばれるのだろうか。イギリスであれどこであれ、日本以外のオーケストラの名前に「市」が付く例があったか、思い出せない。City of Birmingham Symphony Orchestra をそのまま訳したといえばそうなのだが……。
●が、ある日、「翻訳地獄へようこそ」(宮脇孝雄著/アルク)を読んでいて疑問が氷解した。これは翻訳家による上質なエッセイ集で、巷にあふれる珍妙な日本語訳についての実例も豊富に挙げられていて、出版関係者なら背筋が凍ること必至の一冊なのだが、ここで「バーミンガム市交響楽団」の例が小さく取り上げられていた。「小説で知ったイギリスにおけるcityの意味」という章があって、「主教が在任する聖堂のある町をイギリスではcityと呼ぶ」のだとか。バーミンガムにも主教が在任する聖堂がある。だから、ここでのcityを「市」と訳出する必要性はない。この章ではそのcityの意味を正しく把握できずにおかしな訳に至った小説の例が挙げられていて、ついでに「バーミンガム市交響楽団」が出てきた次第。
●この本はとても楽しく読めて、なおかつためになる。誤訳の例はたくさん挙げられていても決して告発の姿勢になっていないところがいい。翻訳書を読んでいて「あれ? なんだかヘンだな」と感じることはよくあると思う。ひどい場合は、日本語なのにまったく意味がわからない文章が出てくる(担当編集者はこれを理解できたのだろうか?……と首をかしげることもたびたび)。ある翻訳小説のこんな一例が挙げられていた。

「あなたはずっと寛大でいてくれましたね。ぼくの大言壮語にも、寛大でいてくれるでしょう?」

一見、日本語としては問題がなさそうだけど、「大言壮語」が引っかかるということで原文にあたると big mouth が出てきた。ここでの正しい意味は「おしゃべり」。ほかの言葉も吟味した結果、正しい解釈はこうなるという。

「きみの負け方は実にいさぎよかった。勝ったぼくを恨んだりしてないよな。それに、よけいなことをぺらぺらしゃべったかもしれないけど、もう忘れてくれ」

なんという明快さ。この引用文だけを見ても場面が目に浮かぶようなわかりやすさがある。同時に翻訳というものがどれだけ難しいか、どれだけ多くの罠が潜んでいるかに戦慄する。
●もうひとつ、この本で膝を全力で叩いた一節があって、それは「文脈で意味合いが変わる "decent" をどう訳すか」の項。decentという言葉には悩まされたことがある。ワタシは日頃英語に接する機会はほとんどないのだが、唯一例外として、イギリス製のPC用ゲーム Championship Manager にとことんハマっていた時期がある。これはフットボール(=サッカー)クラブ・マネージメント・シミュレーション・ゲームとでもいうべきゲームで、実在するクラブのマネージャー(オーナー兼監督)になって、選手を売買したり育成したりできるというもの。日本語版がないので、必死に辞書を引きながらプレイした。ゲーム内で、自分のクラブにいる無名の若手が有名選手に育ったりすると、とてもうれしい。で、たくさんいる無名の若手に対するスカウトの評価を見ると、やたらと decent player と呼ばれる選手が見つかる。辞書によれば、decentとは「きちんとした」「感じのいい」。ワタシはこれを「まずまず見込みのある選手である」と理解して、decentな若手を積極的に試合で起用し、経験を積ませていたのだが、ちっとも能力が伸びてこない。何人もの選手で試したが、だれひとり、トップチームで活躍できないのだ。どんなにがんばっても育たないので、やがてワタシはdecentを「凡庸な」と解するしかなくなった。この本ではdecentについて、ランダムハウス英和辞典にある「非難される点がないといった消極的な意味を持つ」という説明が紹介されたうえで、文脈による訳語の変化が解説されていて、いろいろと腑に落ちる。

December 13, 2018

新国立劇場「ファルスタッフ」(ジョナサン・ミラー演出)

ファルスタッフビール●12日は新国立劇場でヴェルディの「ファルスタッフ」。ジョナサン・ミラー演出の再演。カルロ・リッツィ指揮東京フィル、キャストはロベルト・デ・カンディア(ファルスタッフ)、マッティア・オリヴィエーリ(フォード)、エヴァ・メイ(フォード夫人アリーチェ)、村上公太(フェントン)、幸田浩子(ナンネッタ)、エンケレイダ・シュコーザ(クイックリー夫人)他。17世紀オランダ絵画にインスピレーションを得たという舞台でくりひろげられる正調ファルスタッフ。笑い成分はほどほどで、バランスの取れた演出。リッツィの指揮は勢いがあって、大らか。昼公演ということもあってか、リラックスして楽しむべき「ファルスタッフ」だった。フォード役がお気に入り。歌もスマートなルックスも。
●ヴェルディの作品のなかで、もっとも愛すべき作品というか、共感できるのが「ファルスタッフ」。こういう太っちょで野卑でルール無視、でも憎めない人物って、現代社会ではなかなか許容されがたくなってきてると思うんだけど、そういう意味ではオッサン・ファンタジー。そして、この作品は肉オペラでもある。肉礼賛。ビバ脂肪。ファルスタッフは言う。「肉をつければモテる」。それだけじゃない。テムズ川にドボンと落とされても、肉がついていたから助かった。たしかに脂肪が多いと人間は水に浮きやすいと、水泳サイトを見ると書いてある。もしファルスタッフが糖質オフとか脂質オフなんてやってたら、彼に第3幕が訪れることは永遠になかった。肉は命を救う。
●台本はボーイト。原作はシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」をベースに「ヘンリー四世」が取り入れられているということだが、終場は「夏の夜の夢」を想起させずにはおかない。真夜中の森、妖精の女王、複数カップルの結婚式というモチーフはまさしく。後に書かれるブリテンのオペラを連想する。ボーイトの台本でひとつ不足を感じるのは、フォードがフォンターナを騙ってファルスタッフにアリーチェを口説いてほしいと依頼するところで、あの展開は唐突で不自然だと思う。原作の「ウィンザーの陽気な女房たち」のあらすじを読むと、もう少し自然な流れがありえたようにも。
●正確な訳詞は覚えていないんだけど、「キャベツの芯で撃たれる」みたいな言葉が出てくるじゃないすか。あれってなにか成句とかになってるんだろうか。豆腐の角に頭をぶつけて……みたいな?(違うか)。ふと思い立って「キャベツの芯」で検索してみても、クックパッドとかのレシピしか出てこない。とりあえず、キャベツの芯には栄養があって、工夫次第でおいしく食べれることはわかった。

December 12, 2018

アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の「春」プログラム

●10日はサントリーホールでアラン・ギルバート指揮の都響。メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、シューマンの交響曲第1番「春」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラム。シューマンとストラヴィンスキーで一足早い「春」つながり。「フィンガルの洞窟」は夏の風景だとは思うけど。少し前に、同じ場所でギルバート指揮NDRエルプフィルのブラームス他を聴いたばかりだが、最初のメンデルスゾーンからその続編を聴いているかのような錯覚に陥る。NDRエルプフィルで耳にした明瞭、明快なサウンドは都響でもほぼ同様。シューマンではいっそう明るさが前面に出て、輝かしい春の到来に。シューマンの交響曲らしからぬほどの清澄さ。この曲、「春」という名に反して、混濁した響きのなかで鬱々とした暗い情念が渦巻く曲だと思っていたのに、目から鱗。終楽章の風に舞うようなフルートのソロが爽快。後半の「春の祭典」もダイナミックで十分にすばらしかったんだけど、シューマンがもっとも印象に残るという予想外の一夜。
フィンガルの洞窟
●スコットランドのスタファ島にあるフィンガルの洞窟。中に入ると老人が住んでいて貴重な情報を教えてくれるか、ワープポイントとかありそうな雰囲気。

December 11, 2018

トーマス・ヘンゲルブロック指揮NHK交響楽団のバッハ・プログラム

NHKホール前の「青の洞窟」2017
●8日はNHKホールでトーマス・ヘンゲルブロック指揮N響バッハ・プログラム。今やシンフォニー・オーケストラの演奏会でオール・バッハを聴く機会はなかなかないのだが、一捻りしたプログラムで、前半に管弦楽組曲第4番、シェーンベルク編曲の前奏曲とフーガ「聖アン」、後半にバルタザール・ノイマン合唱団との共演でマニフィカト ニ長調のクリスマス用挿入曲つきバージョン。さらにヨーロッパのクリスマスでの演奏習慣に従ってということで、マニフィカトの後にクリスマス・オラトリオから第59曲コラール「われらはここ馬槽のかたえ 汝がみ側に立つ」。クリスマス感、全開。
●管弦楽組曲はもちろん小編成なんだけど、軽やかというよりはむしろ筆圧が強く、ゴツゴツとした手触り。一転して、シェーンベルクで特大編成かつ極彩色になるというコントラストが強烈。これもバッハといえばバッハなのか。白眉はクリスマス仕様のマニフィカトで、ヘンゲルブロック設立のバルタザール・ノイマン合唱団のクォリティが高い。少人数ながら巨大なNHKホールでも不足感を感じさせない。独唱も合唱団のメンバー。今回が初来日。第1ヴァイオリン、コンサートマスターのお隣に座っていたのは郷古廉さんでは。
●終演して渋谷方向に歩くと、人だかりができている。ちょうど17時から恒例となった「青の洞窟」が点灯するということで、その瞬間を待ち構えている人たちが大勢いた。17時ジャストにパッと青く光る。写真は撮り忘れたので、去年に撮ったものを上に置いてみた。たぶん、同じような感じ(投げやり)。

December 10, 2018

ジョナサン・ノット&東京交響楽団の「フィガロの結婚」

●7日はミューザ川崎でジョナサン・ノット&東京交響楽団の「フィガロの結婚」初日。ひとことで言えば、モーツァルトにしてもここまで天才性を全開にさせた作品はほかにないと改めて感じ入る上演だった。コンサート形式とはいえ、完全に演技が入り、小編成のオーケストラが乗る同じ舞台スペースを駆使して、ほとんど舞台上演と変わらないストーリー再現度あり。演出監修にアラステア・ミルズ(バルトロ/アントニオ役でもある)。ノットは今回もレチタティーヴォでハンマーフリューゲルを弾く。オーケストラはホルン、トランペット、ティンパニがバロック・スタイル。東響はやはりモーツァルトを弾くとうまい。テンポは全体にきびきびとして速く、ときには意図してアンサンブルの安定を拒むかのよう。この作品にはしばしば陶酔的な瞬間が訪れるが、そこで立ち止まって音楽の美しさに耽るよりも、音楽を前に進めることと、場面場面の性格を伝えることを優先したようなテンポやダイナミクスの設定を感じる。
●歌手陣は大変に充実している。フィガロにマルクス・ヴェルバ、スザンナにリディア・トイシャー、アルマヴィーヴァ伯爵にアシュリー・リッチズ、伯爵夫人にミア・パーション、ケルビーノにジュルジータ・アダモナイト、マルチェリーナにジェニファー・ラーモア、バルバリーナにローラ・インコ、バジリオ/ドン・クルツィオにアンジェロ・ポラック。みんな歌えて演技もできて、脇役も含めてカッコよくておしゃれ。自分のなかではモーツァルトのオペラとは基本的にカッコいい歌手が歌うものになっており(レポレッロやパパゲーノであっても)、そうでないと違和感を覚えるようになりつつある。かつてのスター、ジェニファー・ラーモアがスザンナにババア呼ばわれりされるマルチェリーナ役で登場するのが感慨深い。
●年増女が若い男と結婚しようと企んだが、その男は実の息子だった。そんなふざけた話に、なぜこんなに胸がいっぱいになるのか。毎回思うのだが、このオペラの台本は第1幕までは完璧で、領主の初夜権なる設定を巧みに生かして「これからどうなるのか?」とぐいぐいと話を引っ張るが、途中から策略と言い訳の連続になると、話がグダグダになって「は? なんだそのヘンな作戦。もう勝手にやってろ」とどうでもよくなる。それなのに、泣ける! モーツァルトの音楽はもちろん場面場面の情景に添ったものだとは思う。思うんだけど……ときどき作曲家は物語に倦んで、音楽が話を置いてきぼりにして高みに昇ってしまうかのように感じる。モーツァルトは台本の枠に収まりきらない音楽を書いている。
●台本はグダグダだけど、テーマは鋭い。途中のセリフに「女はみんなこうしたもの」と出てくるが、この話が描いているのは「男はみんなこうしたもの」。アルマヴィーヴァ伯爵は明日のフィガロ。なにせ伯爵の前日譚は「セビリアの理髪師」だ。そして伯爵という権力者の傲慢さ、愚かしさは容赦なく描かれる。よくこれで上演許可が下りたもの。「コジ・ファン・トゥッテ」もそうだけど、形式上はハッピーエンドであっても、本質的にはなにも幸福な着地点にたどり着いていない。今回、第4幕でカットされることの多いマルチェリーナのアリア「牡山羊と牝山羊は」とバジリオのロバの皮のアリアも歌われた。なくてもストーリー進行に支障はないが、どちらもテキスト上はとても大切なことを歌っている。世のたいていの人は、フィガロの奇抜な策略ともアルマヴィーヴァの権力とも無縁だが、バジリオの処世術には覚えがあるはず。
●終演後の客席は大喝采。オーケストラが退出しても拍手が止まず、歌手陣とともにノットが登場して、スタンディングオベーションに。舞台上にも客席にも興奮と熱気が渦巻いて、なんともいえない雰囲気になった。

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制作者

飯尾洋一(Yoichi Iio)

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