●3日は新国立劇場でベッリーニのオペラ「夢遊病の女」(新制作)。シーズン開幕公演の初日。バルバラ・リュック演出、マウリツィオ・ベニーニ指揮東京フィル。音楽面は充実。とくにヒロインのアミーナ役、クラウディア・ムスキオがすばらしい。声に透明感があり、高音はのびやか、表現は精緻。役柄にふさわしくアミーナそのもの。この演出ではアミーナは可憐であるだけでなく、覚醒時もしばしば病的な様子を見せるのだが(ナルコレプシーっぽい)、その表現も巧み。エルヴィーノ役はアントニーノ・シラグーザ。久々に聴いたけど、大スターの貫禄十分。還暦を迎えるということで(カーテンコールで誕生日を祝うハッピーバースデーのサプライズ演奏あり)、だいぶ成熟したエルヴィーノではあるが、やっぱり華がある。ロドルフォ伯爵は妻屋秀和。入浴シーンに笑。リーザに伊藤晴、アレッシオに近藤圭、テレーザに谷口睦美、公証人に渡辺正親。
●ベニーニ指揮の東フィルは軽やか。威勢のよい場所でも決して力むことなく、清爽とした響きを保ち続ける。なるほど、ベッリーニの音楽にはこういうやり方があるのかと得心。ホルンをはじめ、随所にあるソロの聴かせどころも見事。で、ここから先なんだけど、演出内容に触れるので、これから観る人は読まないほうがいいかも。っていうか、読まないほうがいい。ネタバレとかじゃなくて、解釈に幅があると思うので、他人の見方を先に見てしまうとつまらない。
●なにしろ「夢遊病の女」の物語は、そのままだと毒にも薬にもならない薄っぺらい話で、まるで音楽に見合っていない。物語として最低限の合理性も欠いていると思う。そこで演出家は物語を救い出そうと、いろいろな工夫を凝らす。バルバラ・リュックの演出は、端的に言えば喜劇を悲劇として再構築している。舞台は暗い。風光明媚なスイスは一切出てこないし、色とりどりのきれいな衣装もない。第1幕は上のフォトスポットの写真にあるような殺風景な屋外で、宿の場面は大きな白い布をいくつも立てただけで簡素。なにより目を引くのは中央の大木で、上のほうに男女の人形が二体吊るされているんすよ。この解釈が迷うところなんだけど、孤児であるアミーナの両親なのかな、と。暗くてよく見えないので違ってたらゴメンだけど、ふたりとも吊るされている。あるいは自分で吊ったのか。いずれにせよ、きっとこの村で悲惨な最期を遂げた。これがトラウマとなって、アミーナは病んでいるのかもしれない。伯爵がアミーナの顔を見て「昔の恋人に似ている」と歌う場面があるので、その恋人はアミーナの実母だったのだろう。この村には陰惨な過去がありそうだ。
●第2幕はエルヴィーノの農場で始まるが、これも荒涼としていて、焼却炉付きの大型機具が設置してある。エルヴィーノは裕福な地主だが、時代に取り残されないように努めなければ、裕福であり続けるのは難しいかもしれない。第2幕後半、アミーナは水車小屋(教会?)の屋根というかひさしの部分に現れて、睡眠状態で歌う。高所で歌うから落下事故が起きないかとハラハラする(安全対策はしてあるのだろうけど)。で、高所に登場するのはもともとのストーリーがそうなっているわけだけど、そこから最後まで降りてこない。誤解が解けてハッピーエンドになっても、アミーナはひさしに留まっていて、エルヴィーノのもとには行かない。第1幕で木に吊るされている人形を見てるから、なんかアミーナにもイヤなことが起きるのかなと心配になるんだけど、そこまではやらず、余白を残す。とはいえ、「オペラあるある」なんだけど、演出がどうであっても、音楽は完璧にハッピーエンドを宣言しているので、違和感はある。でもその違和感は許容しないと演出の幅が狭まってしまうので、そこはしかたないかなー。
●アミーナがエルヴィーノと結ばれてハッピーになるとは思えないのはたしか。エルヴィーノは他人の話に耳を貸さず、自己憐憫の強いイヤなヤツ。エルヴィーノにはリーザがお似合いだ。アミーナはもっといい男を探すべき! でもそんなことを言いだしたら、こんな農村で結婚相手をどうやって見つければいいのか。都会に出るしか?
●第1幕、アミーナの心象風景の表現として10人のダンサーが登場するのだが、これがとても効果的だった。これくらい高度で緻密な振付があれば、ダンサーは有効なのだという発見あり。
新国立劇場 ベッリーニ「夢遊病の女」(新制作)
アジア・チャンピオンズ・リーグの「スイス方式」
●さて、ここのところ踏んだり蹴ったりのマリノスだが、昨日のACLエリート(アジア・チャンピオンズリーグ・エリート)では韓国の蔚山(ウルサン)相手に久々に快勝した。ホームで4対0である。いやー、なにせ前の試合では7失点を喫したのだから、少しは借りを返せたかな……と思って、前節アウェイでの結果を確認したらこうだった。
光州 7-3 横浜FM
●えっ。相手が違うじゃん。韓国の光州だよ! 前の試合で4点差が付いたから、昨日の試合で4点差を埋めたと思ったら、対戦相手が違うじゃん! オマイガッ!! そんなふうに頭を抱えたぼんやりしたファンはワタシだけではなかったはず。そうなのだ、今年から対戦方式がいわゆる「スイス方式」なるものに変わったので、ホームアンドアウェイでは戦わないのだ。
●どういうことか。今季からACLはアジアの強豪24チームが戦うACLエリート(マリノス、神戸、川崎が参加)と、その下のACL2(広島が参加)の2カテゴリーに分かれた。で、ACLエリートは従来のグループステージを止めて、東西12チームずつが各グループでホーム4試合、アウェイ4試合のリーグステージを戦う。12チームいるのに、計8試合しかないのだから、これは総当たりではない。しかもホーム4試合とアウェイ4試合はそれぞれ異なるチームと対戦する。これがスイス方式、らしい。
●マリノスの場合であれば、すでにアウェイで対戦した光州とホームで戦うことはないし、ホームで対戦した蔚山とアウェイで対戦することもない。リベンジの機会はないのだ。マリノスはホームで蔚山、ブリーラム・ユナイテッド(タイ)、浦項スティーラース、上海申花と戦い、アウェイで上海海港、セントラル・コースト・マリナーズ(豪)、山東泰山、光州と戦う。12チームいて、8チームと戦うわけだから、残りの3チームとは対戦がない。ちなみに対戦しない3チームは、川崎、神戸、ジョホール・ダルル・タクジム(マレーシア)。川崎および神戸との対戦がないのは同じJリーグ勢だからわからなくもないが、奇妙なことにジョホール・ダルル・タクジムはJリーグ勢との試合が1試合もない。
●当然、公平性はない。強豪相手にはアウェイで戦うよりホームで戦うほうが有利だし、戦わずに済めばもっと有利だ。同じ相手とホームとアウェイのどちらかしか対戦できないのも、フットボール的な原則から外れている気がする。ただ、この奇妙な方式はアジアだけでなくヨーロッパ・チャンピオンズリーグも採用している。うーん、どうなんでしょね、これって。
●で、ACLエリートでは、このスイス方式で12チームから8チームが決勝トーナメントに勝ち抜ける。えっ、4チームを落とすためだけにリーグステージが存在するわけ? それもどうかと思うが、ラウンド16は東地区でホームアンドアウェイを戦い、その先の準々決勝からは東西混合で1試合のみのシングルマッチをサウジアラビアで集中開催する。なんというか、巨額マネーでスーパースターを買い漁るサウジ勢と完全アウェイで戦うことになるわけで、東地区のチームが準々決勝以降を勝ち進むのはかなりの困難。しかも外国籍選手枠が撤廃されたので、中東の巨額マネーがそのまま戦力に反映される。アジアと言いつつ、中東以外は蚊帳の外みたいな感じにならなければいいのだが。
ゾンビと私 その43 御岳山ハイキング、14年後…
●当ブログ内の不定期連載「ゾンビと私」だが、4年にわたって連載が中断していた。なぜか。それはもちろんゾンビ禍がコロナ禍として現実化してしまったからである。現実が追いついた、というか、すでに追い越している。ウイルスに対抗して、天才科学者がメッセンジャーRNAを用いたワクチンを新たに開発し、ワクチン接種作戦が全世界的に行われるというSF的な展開をだれが予想できただろうか。もともとこの連載は、ウイルスの増殖により街にゾンビがあふれてしまったとき、どこに逃げるべきかを考察する連載だった。そして、先行研究も踏まえた結果、近郊の低山がよいという結論に達した。この結論はコロナ禍によって裏付けされたといっても過言ではない。すなわち、人の疎らな場所で、なおかつ都市からのアクセスが比較的容易な場所だ。都知事が言っていたように、大切なのは「三密」を避けること。もう忘れているかもしれないが、「三密」とは密閉・密集・密接だ。三密回避に低山の優位は疑いようがない。もはや役目を終えた当連載であるが、今回はひとつのまとめとして、初心に帰って14年ぶりに御岳山に登ってみた。上の写真は御岳登山鉄道のケーブルカー御岳山駅を出たすぐにある広場であり、たいへん眺めがよい。
●はっ。つい白状してしまったが、ケーブルカーを使って登ったのである。しかも下りもケーブルカーを使った。前回の御岳山ハイキングでは、下りだけは歩いたのだが、今回は体力の消耗を避けるために下りも楽をしてしまった。月日は流れている。ケーブルカーが使えるというのはありがたいこと。いや、本気になれば、ケーブルカーを使わなくても歩いて登れる……と思う、たぶん、もしかすると。
●御岳山駅から徒歩30分ほどで、御岳山山頂にある武蔵御嶽神社に到着する。今回、目的地はロックガーデンだったので、この神社に寄らず近道をしてもよかったのだが、参拝に寄り、平和を祈った。この神社には鎌倉時代の武将、畠山重忠がいることを今回初めて知った。今にも動き出しそうな像である。二俣川の戦いではこの刀で次々とゾンビを薙ぎ払ったと言われている。ウソ。
●ここから歩いてすぐの場所に長尾平と呼ばれる開けた場所がある。眺めがよく、お弁当を食べるには最適。実はこの場所が開けているのは、災害時のヘリコプター離着陸場も兼ねているから。ゾンビ・コミックの金字塔「アイ・アム・ア・ヒーロー」(花沢健吾著)でも都市脱出の手段としてヘリコプターに焦点が当てられていた。下界からヘリで飛んだら、目指すのはここである。
●ここが今回の目的地、ロックガーデン。苔むす岩々と小川のせせらぎが最高に心地よい。ここも東京都内なのだ。岩に近づいてみると、苔がびっしり生えている。ロックガーデンへのハイキングコースはこちらを参照。ケーブルカーを使う前提なら気楽な散策のようなものと思いきや、小雨の後ということもあり地面がぬかるんでいる場所があったり、舗装された道でもかなりの急勾配があったりと、意外と神経を使った。なお、紅葉シーズンが来ると、山とはいえ「三密」状態になる可能性が高いので、そこは留意しておきたい。
河村尚子ピアノ・リサイタル 日本デビュー20周年特別プログラム
●30日はサントリーホールで河村尚子ピアノ・リサイタル。日本デビュー20周年を迎えてサントリーホールでの初めてのソロ・リサイタルが実現。プログラムは前半にバッハ~ブゾーニの「シャコンヌ」、岸野末利加の「単彩の庭Ⅸ」(河村尚子委嘱作品)、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番、後半にショパンの即興曲第3番とピアノ・ソナタ第3番。前後半でがらりとムードが変わるプログラム。前半の委嘱作品は幽玄な日本庭園を思わせるような作品で、ソステヌートペダルを使った弦の共鳴を利用して倍音を響かせるといった趣向が演奏前に奏者から解説された。もう少しコンパクトな空間でもう一度聴きたい曲かも。プロコフィエフでは強靭な打鍵による鋼の音楽から凛としたリリシズムが漂ってくる。後半はショパンのソナタの第3楽章が印象的。ゆっくりとした歩みから、ノクターン風という以上の荘厳さが伝わってくる。
●アンコールは最新アルバム収録曲から、4曲も。挨拶の後、ドビュッシーの「夢想」、続いてシューマン~クララ・シューマン編の「献呈」、リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」、さらにコネッソンの「F.K.ダンス」。おしまいのコネッソンが楽しい。
バッハ・コレギウム・ジャパン第163回定期演奏会 バッハ ロ短調ミサ
●27日は東京オペラシティでバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の定期演奏会。曲はバッハのミサ曲ロ短調。指揮は鈴木雅明。ソプラノに松井亜希、マリアンネ・ベアーテ・キーラント、アルトにアレクサンダー・チャンス、テノールに櫻田亮、バスに加耒徹。やはりロ短調ミサはよい。旧作の転用を多く含み複雑な成立の経緯をたどっているにもかかわらず、冒頭からおしまいまで一本の力強いドラマで貫かれているように、いつも感じる。「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」と違ってアウェイ感に苛まれずに済むのも大きい。鳥肌ポイントはいくつもある。冒頭のキリエの身の引き締まるような峻厳さ、上機嫌のクレドの開始部分。少しひなびた調子のバスのアリア(コルノ・ダ・カッチャのオブリガートは福川伸陽)から一転して快速のCum Sancto Spirituの合唱に突入する部分の鮮烈さは、この曲のハイライト。めちゃくちゃカッコいい。BCJはいつものように熱くエネルギッシュで、一段とキレがあったようにも。合唱の純度の高さも見事。ここで猛烈に盛り上がった後、「クレド」でふわっと温かい雰囲気になるのも好き。
●「アニュス・デイ」のアルト独唱は極上の美しさ。カウンターテナーのアレクサンダー・チャンスは、あのマイケル・チャンスの息子さんなのだとか。マイケル・チャンスはフランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラのロ短調ミサで歌っていて、自分がこの曲に魅了されるきっかけとなった録音。記憶だけで比較すると、アレクサンダーの声はお父さんほど甘くなく、より清澄でくっきりした印象。でも記憶だから実際に聴いたら違うかも。
アントニオ・パッパーノ指揮ロンドン交響楽団のサン=サーンス
●26日はサントリーホールでアントニオ・パッパーノ指揮ロンドン交響楽団。前回の来日ではサイモン・ラトルに率いられてやってきたロンドン交響楽団だが、今回は新しい首席指揮者であるパッパーノとともに来日。パッパーノはサンタ・チェチーリア管弦楽団やロイヤル・オペラとの来日公演の印象が強いけど、ロンドン交響楽団のシェフになるとは。もっともイギリス出身なので、ラトルと同様、「里帰り」を果たしたことになるわけだ。
●プログラムはベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番(ユジャ・ワン)、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」(オルガン:リチャード・ゴーワーズ)。来日オーケストラのソリストとして聴く機会の多いユジャ・ワンだけど、自分が前回聴いたのは5年前のLAフィルとのジョン・アダムズなので久々。今回はラフマニノフの作品1であるピアノ協奏曲第1番。アスリート的な俊敏さはまだまだ健在で、洗練された鮮やかなラフマニノフ。成熟したけど、流儀は変わっていない。歩きづらそうなハイヒールもミニスカートも左右非対称の高速お辞儀も以前と同じ。ただ、あの高速お辞儀、以前とまったく同じではないと思うんすよね。だれにも等しく時は流れている。ソリストアンコールとして、グルック~ズガンバーティ編の「精霊の踊り」を弾いて、曲が終わったらそのまま続けて、シューベルト~リスト編の「糸を紡ぐグレートヒェン」へ。こんなふうに2曲弾く手があったとは。カーテンコールの時間を省略できてお得!……ってのは違うか。どちらもしっとりとして情感豊か。
●サン=サーンスの「オルガン付」ではオーケストラの澄明なサウンドを堪能。オーケストラの基本的なキャラクターは前回の来日公演と同様の印象で、解像度が高く、透明感があるのに密度が濃い。パッパーノがサンタ・チェチーリア管弦楽団を指揮したときのような原色のカラフルさではなく、パステルカラーのようなエレガントな色彩感があって、すっきりとスマート。白眉は第1楽章後半の瞑想的なアダージョ部分で、磨き上げられたサウンドは驚異的。ここまでできるのは最高峰のオーケストラだけ。終盤は勢いが勝った感もあったが、随所にパッパーノのカラーも。アンコールはフォーレの「パヴァーヌ」。すごい完成度。これは前回の来日時にラトルの指揮でもアンコールで聴いた曲。弦は対向配置、コントラバスは上手。
●開演時の楽員の入場がアメリカのオーケストラと同じ方式で、みんなばらばらに入ってきて、いつの間にか全員そろっている。で、コンサートマスターが登場するよりも前にチューニングをする(トップサイドの奏者が立って合図を送る)。チューニング後、コンサートマスターが入場して、拍手。いろんなやり方があるものだな、と。
東京国立近代美術館 所蔵作品展 MOMATコレクション 芥川(間所)紗織 生誕100年
●東京国立近代美術館の所蔵作品展MOMATコレクションの一角に、生誕100年を記念して芥川(間所)紗織の作品がいくつか集められていた。今年は各地の美術館で足並みをそろえて芥川作品が展示されているようで、横須賀美術館、高松市美術館、東京都現代美術館など、全国10館でそれぞれの収蔵作品を展示してきた模様。芥川(間所)紗織は東京音楽学校(現在の東京芸大)本科声楽部を卒業後、作曲家の芥川也寸志と結婚。結婚後、家では歌をうたえないと声楽の道をあきらめて、絵画に転向したという異色の経歴の持ち主。間所は再婚後の姓。
●上は「女(B)」(1955)。ポップでユーモラスなんだけど、うっすら怖い。
●こちらは「神話 神々の誕生」(1956)。中ボスクラスのドラゴンに勇者が伝説の剣で会心の一撃をヒットさせたみたいなRPG感。
●「スフィンクス」(1964)。渡米して作風を一変させた後の抽象画。この作品の翌年、41歳で妊娠中毒症により早世している。
●東京国立近代美術館、10月1日から企画展「ハニワと土偶の近代」がスタートして、もちろんそちらも魅力的なんだけど、空いているのは所蔵作品展しかやってない今。快適度が高い。
「死はすぐそばに」(アンソニー・ホロヴィッツ)
●アンソニー・ホロヴィッツ著の最新刊、「死はすぐそばに」(山田蘭訳/創元推理文庫)を読む。ホーソーン&ホロヴィッツ・シリーズの第5弾だが、抜群のおもしろさ。よくも毎回、これだけ新味のある趣向を盛り込めるものだと感心するばかり。このシリーズ、探偵役のホーソーンと助手役で記録役でもあるホロヴィッツ(著者自身)がコンビを組むというホームズ&ワトソン以来の古典的なミステリの枠組みを借りながらも、小説としては一種のメタフィクションになっていて、そこが新しい。著者本人が物語の登場人物であるということに加えて、ミステリについてのミステリになっているという二重の自己言及性が肝。今回は高級住宅地でヘッジファンドマネージャーが殺されるのだが、隣人たち全員が被害者を嫌っており、すべての住民に殺人の動機があるという設定。さて犯人はだれかと捜査を進めるのだが、設定自体がアガサ・クリスティーの超名作を想起させる。もちろん同じ結末にはならないはず、と思いながら読み進めてゆくと……。
●軽い驚きは、小説内でいわゆる密室ミステリ的な状況が訪れたところで、著者が密室ミステリ論を述べる場面。
近年になってわたしは、最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになった。島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』、あるいはこの分野の名手であり、八十編近くもの作品を書いている横溝正史の『本陣殺人事件』をぜひ読んでみてほしい。どちらもすばらしく精緻で鮮やかな作品だ。
まさかアンソニー・ホロヴィッツのミステリを読んでいて、島田荘司や横溝正史が出てくるとは! くらくら。「斜め屋敷の犯罪」、懐かしい。また読もうかな。
●今回はこれまでのシリーズと違って、もう終わってしまった過去の事件を、結末を知らされないまま少しずつ著者が書き進めるという趣向になっている。小説内の過去の時間軸と、著者の現在の時間軸がそれぞれ流れているわけだ。これもとても気の利いた趣向。緻密なんだけど、するすると読める。